「囚人の業務終了を承認します」
いつもお決まりのその声を受けて、一同はそれぞれ行動を始める。最大12時間の就寝および休息を目的とした、いわば囚人達の唯一の自由時間だ。
最初こそバスの機能に驚いたものの、三日も経てば全員すっかり馴染んで、それぞれがやりたい事をするべく奥の廊下に入って行く。
健康を維持している者には不寝番が定期的に回ってくるが、あまり眠らなくて良いらしい管理人やあえてやりたがる者もおり、それほど頻繁ではない。
今日もウーティスが管理人に一目置かれたいが為に不寝番を買ってでている。思わずそこに加わろうかとしたが、やめておいた。
そう、その男は実のところあの部屋に戻るのはそんなに好きではなかったのだ。
それぞれの部屋は心象風景を模してあるらしく、どことなく見慣れた景色や、意識下にあるものが見えるそう……なのだが。何故か自分の部屋の鉄格子から見えるのは、かつての家だった。まるで綺麗に切り取ってあるかのごとく、その外観がぽつんと見える。
あまり見たくなくて、過去を忘れたくて、封じ込めてあったそれが、そこにはある。まだ開けたくない感情も混ざっているのに、まざまざと見せつけてくるそれは、いずれ向き合わなくてはいけないのだろうか。それが静かに心を掻き乱す。
音もなく落ち着いている黄金の部屋。キラキラとピカピカと輝く金銀や宝石は綺麗なのにとても居心地が悪いのだ。本当にあの部屋は趣味が悪い。
ああ、あそこに帰りたくないな。
かつて住んでいた世界は綺羅びやかで豪華だっただったけれど、心を打つものは何もなかった。
どれほど今が苦しくても、お金もなくて、清潔でいられなくても、それでも綺麗なままの世界より、今の方が好きだった。
だから、せっかく変われたと思ったのに、あの心象の世界がいつでも突きつけられているという事実が苦しかったのだ。
あそこに一人でいるのは嫌だ。せめて誰でもいいから、優しい目をした人に会いたい。
そう願って開いたドアの先は、まったく知らない部屋だった。
「……あれ?」
そこには見知った男の、上着を脱ぎ、ネクタイを解こうとしている姿があった。ばちりと目が合う。男は声もあげず、無言のままだ。
「ここは貴方の部屋ですか?」
「そうだが」
「う~ん、おかしいですね。ちゃんと扉が締め切られたのを確認して開けたはずなんですけど……」
男は気にせず脱いだ上着とネクタイをハンガーに掛けている。
「まだここの事はよく知れない。何かの特異点を使っている事は確かだが。……何か、入る時に考えた事はあるか」
「ん~。……僕、あんまり自分の部屋が好きじゃないので、何処かに寄り道したいかな~、なんて」
ふんわりと事実は隠して、からりと笑って見せる。これで上手く誤魔化されるだろうか。とりあえずあの部屋が嫌いなのは事実だ。先程まで合っていた目は既に他を向いていて、少しばかりの沈黙が気まずく思える。
だが、ハンガーをカチャリと掛ける音と共に届いた言葉は、思っていたより優しかった。
「なら、少し寄っていくか。お茶くらいなら淹れよう」
「ほんとですか? じゃあお邪魔します」
部屋に一つしかない椅子を軽く引かれたので、誘われるがままにそちらに座る。ケトルに水を入れて湯を沸かし始めたムルソーをちらちらと視界に入れながら、初めて見る内装を見やった。いや、何度かこれらを見ているかもしれない。他人の夢に土足で上がってしまうようで、あまり覚えずにいたのだが。
所々に手や人の視線を想像させる抽象的な落書きがあり、他はとても殺風景で何もない。が、気になるとしたら所々に鎖が垂れているところだろうか。どこから降りてきているのかは全くわからない。それらに触れるのも野暮な気がして、あえて黙っておいた。
自分で言うのもなんだが、口に出した何気ない一言で他人の気分を害することがままあるのは理解しているのだ。だから、そう、褒める所を探す。そうすれば怒られることは少なかったから。
「ムルソーさんの部屋、物がなくてスッキリとしていてとても良いですね」
あれ、褒めたつもりなのに、いざ口に出すと嫌味に聞こえる気がしてしまう。言葉選びは本当に難しい。
「そうか」
しかし、お構いなしに会話は流された。お湯が沸くまでの時間を何もせず過ごすには長かったようで、ムルソーがハンガーを持って手を差し出してくる。
「あ、お願いします」
上着を脱いで渡すと、満足したかのようにムルソーが上着を吊り始める。あまりきれいではないだろうに、こうなるのならもう少し身綺麗にして来たかったなと、少しだけ後悔した。
「わあ、いい香りがしますね~」
「ただのジャスミン茶だ。口に合うかは知らん」
葉を蒸らしているのか優しい香りがふわりと広がる。何もない部屋なのに、香りだけでこんなにも違って見えるのかと心が踊る。いや、何より人がいるのだから、それだけで楽しい空間に思えるのだが。
「最近、僕の口はだいぶ下町の味に慣れてきたんですよ。大丈夫です、口の方を合わせますから」
これなら冗談で通じるだろうかと、茶目っ気を含ませて笑って見せる。
「そうしてくれ」
この相手にはいまいち通じないのだが、構うまい。
確かにご飯の味の良さで言えば実家にいた方が勝るだろうが、それでは流石に飢えてしまう。今ではあまり味に頓着せず食べるようにしていた。味は落ちても、外で感じられる味覚の方が好きだったし、不味くてもどこか誇らしい気すらしたのだ。
程なくして出てきたお茶は、可愛いカップに入っているでもなし、スプーンや砂糖、お茶請けが共に付いてくるでもなし、素っ気ない湯呑みに注がれただけのものだ。それでも湯気の立つそれはとても魅力的に見えた。
「いただきます」
一つ頷かれたのを見て、熱々の湯呑みにそっと口付ける。少しだけふーふーと冷ましてから、ゆっくりと味わうようにお茶を啜った。
「どうだ」
「ん~……普通です」
「そうか」
更に一口、二口。言葉もなく二人して茶を啜る。体がぽかぽかとして来て、香りに満たされて、とても気分がいい。この殺風景な部屋に、すっきりとした甘い香りが漂うのがたまらなく心地よい。
「でも、とても温かくて、なんかこう……ほっとしますね」
思わずふにゃりと笑ってしまった。お茶を飲むだけで掴める小さな幸せもあるのだと、外の世界に来て初めて気づいた。味なんてきっと些末なことなのだ。実際のところ味は本当にただのお茶。
「ジャスミン茶にはリラックス効果もある」
なるほど、そう言われると心が更に落ち着く気がする。
「そうなんですね。それで僕に淹れてくれたんですか?」
「それはたまたまだ」
「あ~、ですよね~」
元から落ち着いて一人でお茶は飲むつもりで、そこに迷い込んだ自分が足された程度なのだろう。偶然来た人間を偶然のままにもてなしただけなのだろうが、捨て置きはされなかった。
ああ、知っていた。なんとなく、そう、この人はとても優しい人なんだと知っていたのだ。
「けど、ありがとうございます。また飲みに来たら、淹れてくださいますか」
「その程度なら構わない」
少しあざといかと思いつつも、小首を傾げて聞いてみる。返ってきた返事に、やはり温度は感じられなかった。が、よく見ると少しだけ口元が上を向いていた。
きっとそうさせたのはこの甘い空気なのだろうけれど、それを見て花開くように心が元気になってしまった。
「あは、僕わかっちゃいました。ここに来てしまった理由」
萎れていた花は、少しの水と光があれば咲き誇れるのだ。だから気づいてしまった。
「僕は、あなたの優しく笑う顔が好きなんです」
こうみえて、自分に優しくしてくれる人を見分ける審美眼には長けているつもりだ。この人なら、きっと自分を傍に置いてくれる。そんな気がした。
神妙な顔をするあなたの気配を感じたけれども、それに気づかぬふりをして、もう一口、湯呑みに口をつけた。
このあたりでメフィストフェレスの奥が通路になっていて
囚人たちのあの独房兼個室みたいになっている……みたいな話が出てきました。
しかもなんか、数人でわちゃわちゃしてたりする!?!
じゃぁムルホンも仲良しできちゃうじゃん!!!
と喜び勇んで書き出しました。
つまり得意の馴れ初めみたいなやつです。
二人を仲良くさせていきたいだけの、CP?
私がそうだと言うからCPだよ!?みたいなムルホン
短い連作になっています。
ちなみに私はジャスミン茶がきらいです。
中国に行ったら、アレかスプライトしか子供に飲めるものがなくて泣きました。
甘い香りしてるのに普通の味なのがダメなんだと思います。
香りの通り甘かったらたぶんOK……。
なんか一応色々とお茶について調べたので知識は深まりました。