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神よ、あなたの世界は 2(幻水紡時 レネ様過去捏造)

神よ、あなたの世界は 1 の続きです。











【選ばれし死】

 限界を感じて、幾日が過ぎただろうか……。
 悪化の一途を辿ったサイキ修道院は、それでもかろうじて機能していた。街は荒廃し、逃げ出す者も多かったが、それよりも戦いに出て傷つく者や死ぬ者の方が多かった。
 神の教えの賜物と言えば聞こえは良いが、これがオル・フェリア神を国教に掲げた民なのだ。生まれ育った地を見捨てられる者は少なく、若い女性や、まだ幼いと見える男子までもが戦列に加わった。そんなもの、戦力に数えられるようなものではなかった。
 ただ、テラスファルマは肉を好む。つまり、彼の地で死んで餌になれば、それだけ周囲への襲撃が先延ばしにされると言うことだった。そんな無意味な――だが、本人達には必死の――攻防が繰り広げられていた。

 レネシアは、生きて救済を続けていた。救済と言っても、お粗末なものだった。薬も包帯もほとんど底をつき、ただ死にゆく者たちに、救われるのだと説いて回るだけだった。そして死んだ者たちに、送る言葉をかけるだけだった。

 もう保たない。もう、限界だ。何度数えたかわからない限界がまた来ていた。懸命に働く修道士も、修道女も、過労が祟って倒れるものが続出した。レネシア自身も、疲労を感じない朝はない。倒れた仲間の穴を埋めるように、寝る暇も惜しんで動き続けた。
 とうとう、ある日撤退命令が降りた。それも街全体にだ。
 近日、修復不可能になったトクソン要塞より、全軍が撤退する。次なる防衛地は、首都であるオムファロスを広く守護する城壁と、その最先端に存在する魔術都市ファルマケアだそうだ。
 既にこの修道院には動けない者が山のように居る。それでなくても、このクロロスの街には、修道院や病院にさえ収容できない負傷者が山のようにいることだろう。おそらく、そんな彼らには撤退命令は伝わっていない。つまり、この一帯の街は生贄になるということだった。
 それを聞いた時、レネシアは「まさか」ではなく「やはり」と思った。
 共に報告を聞いていたセレーネが不安そうな表情を浮かべる。レネシアは、上手く表情を作ることができなかった。もう何もかもに疲れ、感情が摩耗していた。
 神はいない。ここへきて、それを思い知った。信じるものを失った心は、脆かった。
 しかし、その後レネシアは修道士と修道女を呼び出すと、今後の身のふりはどうするか、各々が決めるよう委ねた。逃げられるのであれば、逃げても構わない。それを咎めることもない。ただ、一人でもこの地に残るのであれば、共に残る事を伝えた。それは『神に仕えた者』としての判断ではなく『神を信じた者たちを救う』ための、最後に残された矜持を守るための結論だった。



「わたし、残るわ。わたしはこの土地で生まれて、育ったんだもの。この地で両親を亡くして、わたしを縛るものはもうないけれど。それでもわたしは、この街を捨てることはできないわ」
 皆が寝静まったその夜。レネシアが部屋に訪ねて来て言ったのが、その言葉だった。
 修道女や修道士は、自ら神の道を歩むべくなる者もあるが、身寄りを無くした子供がなる場合も多い。セレーネは後者だった。神の教えを乞うものは等しく生活が保障される。彼らに伴侶を持つことは許されないが、神の言葉を代弁できる者として、一定の地位も保障されるのだ。
 彼女は親を亡くし、それでも故郷を捨てられなくて、修道女になった。
「それならば、私も……」
「あなたはだめ。帰って、オムファロスへ」
「しかし……」
「あなたには大切な人がいるでしょう? こんなところで死んでいい人ではないはずよ。だから、ここは私とミュソン司祭に任せて」
「君はひどいな。私がここに残るかどうかは、私が決めることだ」
「そうね。けれど、わたしはあなたに生きていてほしいわ。だって、あなたは皆の希望だもの。レネフェリアス」
 彼女は、あえて……という口ぶりで、その言葉を使った。その言葉には、羨望と、愛しさと、優しさが含まれていた。レネシアの胸には、苦しい思いが渦巻く。
「やめてくれ、そんなものじゃないよ」
 神を既に信じていないのに、神を騙るだなんて。それは何という背徳なのだろうか。故に無性に胸が痛んだ。
 こんなにも、こんなにも人々は神の救いを求めているのに。もうこれ以上の地獄のような世界が生まれてほしくはないのに。それを回避できる術を、神も、神の名を贈られた自分すらも、救う手立てを持たない。
 信仰心など既にない、微塵も……なかった。あるとすれば、神への怨嗟だった。
「まだ時間は少しだけあるわ。お願いだから、あなたは逃げてね」
 そう言って、彼女は静かに部屋を去っていった。普段は凛と伸びているはずの気丈な彼女の背中は、ひどく痩せ細って弱々しく見えた。
 本当は、皆に「逃げろ」というべきなのだ。彼女も、司祭も、残る者も、無理矢理にでも引き摺って行かなければならないのだろう。けれど、人が故郷を思う気持ちや、残しゆく者たちへの事を考えれば、簡単に割り切れるものではなかった。
 何よりこれまで、一人でも多くの命を取り留めるために、心と魂が安らぐようにと戦ってきた我々の意味は、全てはそこにあるからだった。
 命は尊い。けれども、命よりも尊いものがある者もいる。レネシアは、それを守りたかった。彼にとって尊いものは、神でも、命でも何でもなく『誰かを救いたい』と懸命に命を削っていた仲間たちだったのだ。
 ここで果てよう。本当にそう思っていた。
 この世に神はいない。もし神がいるのなら、人がこんなに無残に殺されていいはずがない。だから、神はいない。生きていても幸せが確約されるわけでもなく、死んでも楽園に行けるかなんて分からない。救う者はいない、初めからいなかったのだ。
 
 そう思うと、全てがどうでも良くなった。このまま地獄を見続けるのならば、いっそのこと――

 レネシアは、厨房の裏口から誰にも見つからないように、ふらりと修道院を出た。月の明かりだけを頼りにして、歩きなれた道を歩く。街を見下ろせる小高い丘で、最期の夜景を見るつもりだった。
 故郷は遥か遠くだが、この街は第二の故郷とも言えた。気候と美しさだけならば、このクロロスの方が断然上だ。
 海の方から、暖かく湿った潮風が吹き抜けて行く。それは心地よくて、思い出の中と変わらず優しかった。街の光は、いつもより少ない。きっと逃げ出し始めた者が多いのだ。そのうち情報が漏れて、大混乱になるだろう。その頃には、おそらくトクソン要塞は陥落している。撤退は陽が明ける前に開始されるからだ。
 最期に、家族に手紙くらいは書くべきだっただろうか、とふと思う。そして、残してきてしまった者たちを頭に思い浮かべた。特に自分に懐いていた天才少年は、ああ見えて情に脆いのだ。
「すまない、帰れそうにない」
 そう、思い出して僅かに苦笑した。きっと彼はカンカンに怒りながら、泣き荒れるに違いない。普段は大人しく聡明なのに、そこはまだ子供なのだ。
「馬鹿ぁ!!!」
 そうそう、こんな感じで……。
「っ!?」
 と、見知った声に驚いて、思わず振り返る。そこに居たのは、髪も服も乱して、肩で息をつくゼフォンだった。
「ゼフォン!? 何故、君がここに……」
 これには本当に驚いた。馬を飛ばせばそこまでかかる距離でもないが、まだ成人もしていないような年端も行かない彼が――なぜ、ここにいるのだ。
「君があんまりにも遅いから迎えに来たんだよ! そしたら何? 君こんなところで何をしているの!?」
「ゼフォン、私はここから……」
 そう呟いて、ゼフォンに背を向ける。眼下には、闇の中に広がる美しいクロロスが輝いていた。光を失っても、なお美しい。それは最後の輝きだからこそかもしれなかった。
「逃げないって……言うの?」
 静かに頷くと、息を呑むような気配が伝わる。
「どうして……? テラスファルマはね。もう、止まらないよ。やつらを倒せるスピードより、やつらが増えるスピードの方が何倍も、何倍も早いんだ。僕たちの生きる世界は、もうすぐなくなる。だからそれまでに逃げないとダメなんだよ」
 世界とは、すなわち……皇都オムファロスに逃げても、無駄だということだ。
「では、どうやって? 孤島にでも逃げるというのか?」
 逃げても逃げても、そこが地獄に変わるのならば、意味が無い。未来などない。救いの神などいない。奇跡は起こらない。世界が、終わる。
 ゆっくりとレネシアが振り返る。せめてゼフォンにだけは、最後まで地獄を見せたくはない。
 けれど、ゼフォンの瞳は強い輝きを放っていた。未来を諦めない目だった。そして、ゆっくりと、確かな声音で告げた。
「完成……したんだ。結界が。まだ、力は発揮できないけれど」
「結界?」
「うん。百万世界の力を借りて、この世界に一時的に『似て非なる別世界』を作り出す魔術。そうしてテラスファルマたちから、僕らを隔離できる結界。発動条件がいくつかいるから、まだ少し時間はかかるけど」
「君が、考えたのか」
「ううん、全部僕じゃないよ」
 希望だ、と思った。人が助かる可能性を僅かにでも秘めた希望。
 だが、しかし……ゼフォンがわざわざ、何故ここまで来たのか。それを考えると胸が潰される思いだった。ここでは発動できないのだ。すなわち
「見捨てろと、いうのか。神の子らを……」
 ここの者は、やはりもう助からない。誰にも救われない。
 ゼフォンは俯いて、掠れた声で真理を告げた。
「全員は、助からないよ」
 わかっていた。わかっていたのだ。けれど、レネシアは
「ならば……」
「やめてよッ!!!」
 ゼフォンの声が、弾けた。続いて、涙に声を詰まらせながら、一気にまくしたてる。
「君はまがりなりにも学者だろう? だったらわかるはずでしょう、みんな死んだら意味が無いんだよ。誰かが犠牲になって、誰かが助からないといけないんだ。その道しか、見つからないんだ。見つけられなかったんだ。僕だってやだよ。もう人が食われていくところなんて見たくないよ。けれど、君が死んでしまう方がもっと嫌だ!!! だから、だから僕は頑張れたのに……」
 そこで、ゼフォンは顔を上げて泣き叫んだ。闇を劈く音だった。
「お願いだから、あきらめるなんて言わないで! 生きることを、やめないで! 僕が、君を守るから。だから……!!!」
「ゼフォン……」
 レネシアははじめて迷った。頑なに貫こうとしていた想いを、揺らがせた。
 帰るべきか、否か。ここで救える事はもうできなくとも、ここでやり遂げたい事はあった。けれど、もし希望があるなら……と、その選択肢が心に浮かぶ。
「レネシア」
 そこへ、固く嗄れた声が入ってきた。はっと見やると、そこにはセレーネの腕に支えられながら、杖をついて歩いてくるミュソン司祭の姿だった。
 声が届く距離まで移動した司祭は、じっとレネシアを見据える。
「レネシア……。皇都へ、お帰りなさい」
「司祭様、しかし!」
「おまえはまだ若い。おまえの成さねばならぬと考えている事は、この老いぼれが必ずや引き継ごう」
 すっかり老け込んだ司祭は、これまで見てきた中でも気力にあふれていた。もとより寡黙で、言葉が少ないながら、落ち着いて思慮深い師だったはずだ。その司祭が初めて、こうやって言葉を話す。
「この世界は、今よりも荒れ果て、滅び、そして更なる地獄を見るになるだろう。僅かな、在るのかもわからぬ希望に寄り縋り、人々は迷い、惑い、道を探すだろう。……そこに、神は必要なのだ」
 レネシアの瞳に、陰が宿る。心に暗い何かがこみ上げる。
 神はいない。それを知ってしまったばかりなのだ。
 しかし、ミュソン司祭はそれすらも見越したように、ただ穏やかに笑った。なじることも、咎めることすらせずに、憂えうように笑った。
「この世に神は在られぬかもしれぬ。だが、神は『いる』……それは、人々の心の中にいる。ゆえに神はまだ、人にとって必要な存在なのだ。わかるな『レネフェリアス』」
 ハッ、と顔を上げた。レネシアはそれしか見えないとでもいうように、食い入るように司祭を見つめた。
 『レネフェリアス』それは、神に愛されたと言われたレネシアに付けられた、愛称のようなものだった。神に近しい名を、人は偉大な聖人に付けたがる風習はあったが、それはあくまでも『民間での通り名』にすぎない。神に使える敬虔なる使徒が、神を名乗る事など、許されるはずがない。よって、その名は、神職である司祭が使うはずはなかった。

 『レネフェリアス』

 それは、つまり……神の名との融合を、この司祭が認めたということ。
 そして、神が本当に在るのかと説いた彼は、こう言っているのだ。

 おまえが新たな『人の神』となるのだ、と。

「おまえならば、必ず人を救えるだろう。何故なら、人の痛みをよく知る優しいおまえが、ここに『在る』からだ。さぁ、お行きなさい。太陽が、登ってしまう前に……」
 頷いたと同時に、ゼフォンに手を取られて引っ張られた。もう、幾分の余裕もないと言うことなのだろう。
 しかし、もう迷わなかった。ゼフォンを煩わせないように、同じ速度で走った。振り向き様に、力いっぱい叫んだ。
「ミュソン司祭様! シスター・セレーネ! 感謝する! この恩は、生きていく者たちへ、必ず報いよう! ……さようなら!!!」
 おそらく、もう二度と会うことはできない。おそらく、もう二度とこの地へ来ることはできない。骨も拾ってやれないどころか、屍を埋葬することもできない。否、屍で居られさえしないだろう。
 地獄へ変わるこの地に、愛した者たちを置いて行く事は胸が軋んだ。
 だから、せめてこの想いを届けられればと、精一杯叫んだ。
「ええ、さようなら! レネシア! レネフェリアス!」
 セレーネの声が鼓膜を震わす。もう姿は見えない。けれど、その声に背を押される思いだった。
 二人は転がるようにして、坂を下った。樹の枝や葉で手や頬が切れ、布が破れても気にせずに走った。にわかに空が、明るみ始める。もっと、もっと――少しでも、遠くへ――。
「レネシア! こっち!」
 前を走るゼフォンを追いかけるようにして、枝や草を掻き分けて走る。すると、すぐ開けた林道に出た。そこには、馬が二頭繋がれているようだ
「レネシア様、よくぞご無事で!」
 馬の陰から人影が出てくる。聞き覚えのある声で、それが誰かはすぐに分かった。おそらく、ゼフォンが馬に乗るために連れてきたのだろう。
「ルガト!」
 朽葉色の髪に、旅人用のローブを身につけたこの壮年の男は、レネシアの家でもあるモーリュ修道院の神父の一人にして、父の親友ルガト・ルガムだった。
「挨拶は後で、さぁ早く乗ってください!」
 すぐ発てるよう、準備がなされていたらしい。ゼフォンは彼の前へ、レネシアはもう一頭へ乗ると、すぐさま馬の腹を蹴った。馬が嘶き、走りだす。過去を捨て、そして明日へ、未来へと。






【なにゆえにその子は】

 ゼフォンから話の詳細や皇都の近況を聞けたのは、三人が満身創痍で魔術都市ファルマケアに転がり込んだ翌日だった。泥のように眠り、目覚めたのも束の間、すぐに皇都に向けて発った。
 そこまで急がなくとも、テラスファルマはいきなり押し寄せて来るわけではない。食物が多分に用意されている限り、奴らは直ぐに行動することはないはずだ。が、しかしファルマケアでは、既に外門を閉じつつあった。
 この魔術都市は、魔術の研究と魔術の学び屋を兼ね備えている、国内でも稀有な都市だった。いわば国営の魔術実験施設であり、魔術学園都市でもある。そして都市全体が実験場でもあった。
 その例の一つが、巨大な魔防壁だ。この技術は強化が施され、トクソン要塞で実用化されていたり、聖都を覆う防壁にも施された。そのゼロタイプの試験防壁がこのファルマケアだ。
 だが、この実験として造られたファルマケアの魔防壁には他と違う優れた点があった。この魔防壁はとても広範なのだ。横に。片方は海へ沈むまで。もう片方はぐるりと囲んで河底まで。その長い距離をカバーしている。トクソン要塞ほど堅牢かつ完全な守りはできないだろうが、足止めには役立つだろう。
 馬に揺られながら話を聞くところ、ファルマケアを中心とした防衛戦を敷き全軍を撤退させる事は、要塞の一部が破壊された頃には既に決まっていたらしい。それを聞いたゼフォンは研究もそこそこに、ルガトと皇都を飛び出してきた、と言うわけだ。
「だって、きっと君は帰ってこないだろうなって、思ったから」
 そう拗ねるように言う弟分に敵うはずもなく、全くその読み通りだと苦笑せざるをえなかった。彼が来なかったら、おそらく自分は帰らなかっただろう。
 だが、やるべき事ができた。それは生き延びる力となったわけだ。感謝しなくてはならないだろう。
「ありがとう。私を連れ戻しに来てくれて」
 素直に礼を言うと、ゼフォンは顔を赤くして黙りこくった。それを見ていたルガトが声に出さず笑う。
 ルガトは父ソロンの心の友だった。父より少し年は下だが、学生時代に友人関係を結んだらしい。もともとは別の教会に居たが、あまりにもモーリュ教会に来るものだから配属をかえてもらったらしい。
 本来は神学の道よりも学者よりで、レネシアともよく研究について語り合っていた。気分的には叔父のような感じだろうか。
「ルガト殿も、来て下さってありがとうございます」
「いえいえ、若殿がご無事で何よりでした」
「ルガトおじさんは、僕が馬に乗れないからついて来てもらっただけだよ」
 ふてくされるようにゼフォンが頬を膨らませるも、空気は和やかなままだった。ここから戦いの世界は遠い。昨日までの喧騒が嘘のようだった。皇都に通じるまでの道は整備も行き届いており幅も広く、森の真ん中を通っているとは思えないほど明るい。
 そこからはしばらく、聖皇国の近況とその希望の研究について色々尋ねた。
 まず皇都の状況だが、芳しくなかった。トクソン要塞と、近隣の高い生産力や経済力を持った都市を失ったのは、かなりの痛手だ。また一歩、人類は追い詰められたと言うわけである。
 それを知った民の一部が軽い混乱も起こし、神殿へ詰めかける事件も起きたが、多くの民は聖皇の伝える通り現状維持を保ったと言う。これも敬虔なる信者を持つ、宗教国家ならではの芸当だろう。神の声の代弁者に近い聖皇が「一致団結」を唱えれば、従う者の方が多かったのだ。
 しかし、勿論そうでない声もあった。異形の出現は天罰であり、国が、そして聖皇や枢機議院が選択を誤ったからだとする声だった。対立するほどには至っていないものの、思想統一されていたオル聖皇国が、少しずつ綻びはじめているのも事実だった。

 そして、最も議論されているのは案の定、研究者――賢者たちの生み出した『希望の種』だった。話を聞く所、やはりこれはゼフォンのひらめきで完成したところが大きいらしい。
 テラスファルマを研究した結果、予想通り百万世界の力で動いている事は確かだった。宿星の力を誤って暴発させた研究者たちは、そういう意味で『百万世界の力を引き出す』事には成功していたと言うわけだ。なんたる皮肉なのだろう。
 ゼフォンはそれを解析し、別の方法で百万世界の力を引き出すことに成功したのだ。同じ力の源でも、テラスファルマが『陰』とするならば、その力は『陽』だった。百万世界の力。宿星の力の源。それは、テラスファルマを弾き、世界を隔離する。否、隔離という言葉は正しくはない……『百万世界の力で結界を造り出す』というのが正しいだろう。
 生み出された結界を幻で包み、陽の力でテラスファルマを弾く。奴らには見つかる事のない箱庭を一時的に生み出すというものだった。
 しかし、この短期間で実験などできるはずもなく、その結界が及ぶ範囲すら憶測の域を出なかった。広範囲だと予測されたが、その予測最低限の範囲に、人が生活できうる環境を整えなくてはならない。だが、それでは皇都やこの近辺の都市では当てはまらないだろう。
 他にも問題はあるようだった。一つに『希望の種』が発芽し、根付くまでに三ヶ月ほどの期間が必要なこと。二つに必ず芽を出さねばならず、枯らさないためにも『希望の種』とリンクする『人柱』が必要なことだった。
 希望の種は言わば魔術の最先端技術だった。この国で多少荒れた土地でも作物を育てられる技術は、ここから来ている。つまりこの『希望の種』も、魔力接続を得意とする魔術師型の賢者であれば、リンクし力を供給することができるということだ。互いに供給することができれば、枯らすことはまずないだろう。また軌道にのるまで修正をかけることができる。赤子が立って歩くまで、親が手を取って歩くようなものだ。
 ただし『希望の種』はただの植物ではない。そこにどんな副作用があるかもわからない。樹を枯らしてはいけないから、接続者は死ぬことも許されない。倒れることも許されない。離れる事もできない。それは、まさしく『人柱』と呼べるものだった。

「僕がなるよ」
 ひと通り説明し終えたゼフォンは、静かにそう付け足した。
「だって、僕がいいだしっぺなんだもん」
 『希望の種』はゼフォンが考え、そして賢者が生み出したものなのだろう。おそらく、起こるであろう副作用を一番わかっているのも、このゼフォンなのだ。
「ゼフォン……怖くはないのか?」
「わからない。怖くないって言ったら嘘になるかな……なんとなくだけど、あれになったら死ねなくなると思う。例え体の機能が全部止まったって、きっと死ねない。死なせてもらえない。……あれと繋がるって言うことは、そういうことだよ。僕は、人でなくなるんだ。」
 ゼフォンは、真っ直ぐ前を見ていた。その目は虚空を見ているのか、遠くの景色を見ているのか、レネシアには分からなかった。
 この子供は賢い。既にこの歳で、そこらの研究者と同等か、それ以上の知識を持っている。ひらめきは遥か彼方を行く。そのひらめきが、きっと告げているのだ。レネシアは胸が苦しくなって、何か言おうと口を開けた。けれども、その音を遮るように、ゼフォンの明るい声が街道に響く。
「でも、例えもし人でなくなったとしても、大切な人を守れるなら……安いものだって思わない? 大丈夫、君は絶対に僕が守るからね、レネシア!」
 笑顔はやはり、いつものゼフォンだった。笑顔はやはり、いつもの子供だった。その顔を見て、レネシアは薄く微笑みを浮かべながら、あることを胸に誓った。

 この子を殺させやしない。
 この子を生き地獄に落とさせもしない。
 この子は希望の子だ。少なくとも、自分にとっては。

 今度こそ守るのだと、そう胸にかたく、かたく誓った。



 それから三日後の昼、三人は無事に聖都オムファロスへ到着した。
 レネシアとゼフォンは、まずモーリュ教会で父ソロンに帰還の挨拶をした。父は三人の帰りを大変喜び、労いの声をかけてくれた。
 挨拶もそこそこに、ゼフォンは疲れが出たのか部屋に引っ込んでいった。レネシアはそのまま父と枢機議院へ帰還報告に出る運びとなり、ルガトは父の代役で教会に残ることとなった。
 歩みなれた神殿への道を、父の後ろについて歩く。
「すまんな、レネシア。休みたいところだろうが、色々とやるべき事が多く、待っている時間がないのだ」
「いえ、構いません。先の任務に比べれば、これくらいどうということはありません」
 必死に看護し続けたり、身ぐるみそのままで夜道を走る事を思い出せば、この道など目を瞑っていても歩けそうなくらい楽だった。
「ところでな、レネシア。お前に会わせたい方がいるのだが」
 試しに目でも瞑ってみようかと考えたその時、ふと話題が変わる。
「……? 見合いか何かですか?」
「違う違う。お前は勉学や研究においては賢しいが、人の心理に関してはまだまだ鈍い」
「はぁ」
「まあ、ついてまいれ」
 何処へ行くのかとおもいきや、ソロンは神殿でも枢機議院棟ではなく、大きく離れた場所へと歩いて行く。
「ここは……会わせたいとは聖皇様ですか?」
「さすが、我が子ながらそのような所は聡い」
 こちらを背にした父からは、嬉しそうな声が漏れる。レネシアは少しばかり首を捻った。何故か聖皇クレオブロスに謁見する事となったのだ。
 確かに、レネシアの神官位は、遠征する時に『司祭枢機卿』に上がっている。激戦地での神殿監察官としての任も務め上げたと言っても間違いはない。謁見する理由としてはそれで十分ではある。しかし、それでも一介の司祭枢機卿と、突発的な対面を許すというのは出来すぎなのではないか、と。
 神殿監察官としての報告ならば、書類で細やかにやった方がまとめられるだろう。それなのに、これはどういう事なのだろう。
 父の後を付いて行けば、やはり神殿内の謁見の間ではなく、聖皇の私室へ通されるようだ。高い塔をぐるぐると上っていく。ますます訳がわからなかった。
 父が扉を叩き、名を告げると、扉がゆっくりと開く。聖皇は背を向けて窓の向こうを見ていた。緩慢な動きでこちらを振り向くと、上質な聖衣が揺れた。
 聖クレオブロス卿。聖皇の位を継いだ者は、聖人を名乗ることを許される。真っ白の髪に、同じく白の長い髭。そして刻まれた深い皺の中に理知的な光が宿る瞳を持った、齢七十を越える老齢の聖皇だった。
 聖皇は枢機議院の中から選出され、退任するまでその座に居続ける。全ての事柄が聖皇によって決められるわけではなかったが、その発言力が大きいのも確かだった。聖皇とは、言わば国の象徴であり、最大の指導者だからだ。
 この聖クレオブロス卿は、歴代の中でも穏やかな治世を敷いた事で有名だろう。侵攻戦争は、強信派達を完全に封じて反発を招かない程度に行なっていたが、それよりも技術進歩や経済力向上に取り組んでいた。
 またいかに神父や枢機卿と言えども『人の欲』が消えるわけではない。枢機議院や派閥の対立がある中、それを上手く捌きながらも潔白を保っていた人物が聖クレオブロス卿であった。神の申し子として、長らく民の信望や畏敬を込められた聖皇は、この歳まで高潔を守っている。
 レネシアは静かに頭を下げる。神はもう信じていない。しかし、この人物が好まれる人格であり、人生の先を行く者として敬う気持ちがあることは確かだ。ただ、そんな聖皇が、ここに自分を呼んだ理由が未だにわからなかった。
「さぁさ、顔をあげて、椅子に座りなさい」
 ゆったりとした声でそう促されるも、父よりも先に椅子に座るわけにはいかない。どうするべきかと父に視線をよこすと、ソロン卿は椅子に座るように椅子を引いた。これでは、椅子に座っているのが自分だけで、少し心もとない。そう思いながら腰をかけると、聖皇も一つ頷き、正面の席に着いた。
 それが合図だったとでも言うように、父が退室する気配を音で感じ取る。扉が閉まると同時、聖皇が口を開いた。
「遠方からとんで帰ってきたばかりなのに、こんな所へ呼びつけてすまないね。もっとゆっくり休みたかっただろうに」
「いえ、これくらいは何ともありません。お心遣い、痛み入ります」
 聖皇の部屋は、重厚な作りで物は上質なものだったが、最低限の物しか置かれていなかった。このテーブルの上にも、作りは美しいが銀の水差しとガラスのコップがトレイの上に乗っているだけだった。ものは上質だが、質素とも言えるだろう。嗜好品が一切ないのだ。
 そんなグラスに聖皇は自ら水を注ぐと、その一つをレネシアに差し出した。
「この状況で、気を楽に……というのは難しいでしょう。ですが、どうかそう固くならずに、私の話を聞いてほしいのです」
 しゃがれた声が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。週に一度の大礼拝で、聖皇の声は何度か聴いたことがあったが、その時の印象よりか幾分柔らかかった。
「確か、賢者が迎えに行っていたと聞きましたが、件の詳細は聞きましたか?」
 件の詳細とは――そんなものは、聞き返すまでもなくわかっていた。
「『希望の種』ですか?」
「そうです。……あれは、成功する確率は百パーセントではないのかもしれません。けれど、あれは間違いなく、我々の最後の希望に違いないでしょう」
 神の申し子である聖皇までもが、頼らざるを得ないという『希望の種』。そういう意味でも、きっと箔が付くだろう。
「今、賢者達や枢機議院の間で、その件に関して事が進められています。遠からず、定められた地で『希望の種』を埋める事となるでしょう。そこで、あなたには聖皇の座を継いでもらいたいのです」
「は……?」
 あまりにも突飛過ぎる発言に思わずレネシアの口は開いた。そしてそのまま閉じなかった。
 一体、何を言っているのだろうか?この人物は。
「あ、いえ……申し訳ありません。しかしどうして私が? 私はまだ司祭枢機卿になったばかりの若輩者です。それでは、不満を持ってしまう枢機卿がたくさんおられましょう」
 思わず追求に声が荒くなってしまう。けれど、そうならざるを得なかった。これは途方も無い話だ。
 けれど、聖皇は落ち着いた態度を崩す事はなかった。
「そうですね。……では、あなたは、クロロスの地で何を見て、何を思い、そして何を考えましたか? それこそが、今この国に、民に必要なものでしょう。隠す必要はありません。私に聞かせてはくれませんか」
 買いかぶりすぎだ。と、思った。あそこで見て、感じ、そして結びついた答えは、ただの背徳意識だ。そんな欠けた思想をしている者が聖皇になれるはずがない。 そう考えたレネシアは一瞬話すべきか迷ったが、すぐに答えを出した。話せば必ずや今の話は取り消されるだろう。それでいい。それがいい。
「……。私は、彼の地で地獄を見ました。見た、つもりです。この世はもう終わりだと思いました。そして……神は、いないのだと悟りました」
 端的に、そう告げる。詳しく話せばもっとあの苦しみが伝わったかもしれない。重傷者が死を乞い、神に仕えるものが涙を流して手に掛けるような、もうどうしようもない世界の話を、苦しみを……けれども、あえてしなかった。
 それよりも、その結果が問題なのだ。枢機卿が神への信仰を捨てるなど、この国であってはならない。
 だが、顔を伺えば、聖皇はやはり穏やかに微笑んでいるだけだった。
「神に何度祈れども、神が人を助けることはありませんでした。あんなボロ布のようになった痛々しい人々を、ここぞという時に、これ以上の地獄などそうないという時に、救えない。そんな神など、神とは言えません。けれども、ミュソン神父はおっしゃいました。神は、人の心にいるのだと。人が信じる限り、神はいなくとも、神は必要なのだとも。実際、そうでした。救いを求める人を、神を助けることはありませんでした。けれども、神を信じた人々は、救われた顔をしました。神はおらずとも、我々に神は必要なのです」
「そうですね」
「!」
 彼は、聖皇は、肯定した。
「神は、人の心の中に居ます。私が、民から信仰されたように。それと同じように……。レネフェリアス、あなたにも、人は神を見出しています」
「聖皇閣下……!!! 何故ですが、何故あなたが……」
 肯定するのか――。
 信徒よりも、修道士よりも、神父よりも、枢機卿よりも、最も神に近くて神を信じているであろう存在。そのはずなのに。
 その問いに聖皇は初めて、にこりと笑みを浮かべた。
「ミュソン神父は私の大切な友人なのですよ、レネフェリアス」
 きっとこの笑みは、聖皇のものでなく。人としての、クレオブロス卿としてものなのだ。と、レネシアは感づいた。
「この数年は会ってはおりませんが、大切な友とは幾度となく手紙をやり取りしました。そこにはテラスファルマのこと、街のこと、情勢のこと、信仰のこと、そしてあなたのこともありました……。長らく私は聖皇を務めて来ましたが、実際に神を感じたことはありません。私を人たらしめ、そして聖皇たらしめてくれていたのは、いつも彼のような人の言葉でした」
 ミュソン神父を亡くした事は、もう既に伝わっているだろう。やはり、全ての人を引っ張ってでも連れ帰れば良かったと、改めて悔いた。
「だから、私は友の感情を、そして友の思想を信じます。神よりも。神は人を救えなくとも……あなたならば、きっと」
「私は……」
 言葉が見つからなくて、口ごもる。
「私は、もう老齢です。おそらくこの体は、長旅に耐えられないでしょう。もし耐えたとしても、先はそう長くありません。ですが人は、まだ神という象徴を欲しています。この無慈悲で残酷な時代だからこそ、あなたのような者が求められているのです」
 聖皇が悠然と席を立つ。それが合図で、レネシアも席を立った。差し出された右手をやんわりと握り返すと、そこに聖皇の左手が合わさった。しわ深い手からぬくもりが伝わる。聖皇は聖皇なりに、この状況を憂えているのだ。
「すぐに答えを出す必要はありません。けれども、考えてみてください。聖皇の座を……この国の、この世界の未来を照らす光を」
 請うような視線に一礼し、レネシアは退室した。扉が閉まった直後、大きく息を吐き出し目を瞑る。まだ、心の整理が上手くつかなかった。
 聖皇は嘘をついているとは思えなかった。だからと言って、簡単に頷けるような話でもない。この落ちゆく世界で聖皇になるということは、おそらく生半可な苦難ではないだろう。しかも、クレオブロス卿は、ただ聖皇になれと言っていない。ミュソン神父と同じく『神と同化した道標』になれと言っているのだ。
 それは、重い選択だった。途方も無い未来だった。






【鎖と絆】

 家でもあるモーリュ教会に着いた頃には、すっかり夜も更けていた。窓から漏れる暖かい光に心が安らぐ。長らく使っていなかった自室も、部屋主が戻るのを見越して掃除されていたらしく、綺麗に整えられていた。
 夕飯に呼ばれ食堂へ降りる。そこには、豪華ではないが食うに困らない量の温かな料理があった。何より、家族と共に摂る食事は、美味しかった。さじでスープを掬いながら、小さくぽつりと零す。
「まるで、別世界だな」
 数日前まで地獄のような世界に居たというのに。雲泥の差だ。こうして幸せに夕餉を摂れるだなんて、死んでいったものに申し訳がないのではないか――そこまで思考が及んだ時
「違うよ、これが普通なんだよ。これが守らなくちゃいけない普通の世界なんだ」
 こちらの心を読み取ったかのように、ゼフォンがレネシアを見上げて、そう呟いた。
「そう教えてくれたのは、君たちだよ。だから贅沢だなんて、思わないでね」
 そう言い終えると、ゼフォンはロールパンにかぶりつく。変わらずいい食べっぷりをしていた。
 そうだ。この誰しもが人として生きられる、生命を脅かされない当然の生活。――これを求めなければいけないのだ。忘れてはいけない。あの絶望は、希望を掴み取るために、そのために『忘れてはいけない』のだ。心を摩耗させるためではなく、糧としなくてはならない。
 そうして、再び皇都オムファロスでの生活が始まった。



 オムファロスに戻った翌日から、レネシアは活発に動いた。体に疲労が残っていないわけではなかったが、それよりもやらねばならない事が山のようにあったのだ。
 朝の礼拝が終わると、レネシアはまっすぐ研究室へ向かった。そこで資料を探しながら、思考に耽ける。昨日の言葉が、心に湧きあがり、反響していく。
 もし、もしも……だ。聖皇になったならば、それで得られる権力は、いかなるものだろうか。
 権力を欲したことなど、一度もなかった。言い方を変えれば、それに等しきものを生まれながらにして持っていた。神に仕える身として、それ以上を望む事は避けていたし、人を救い導く側としてそれなりの生活ができれば十分だった。
 けれども、もし、その力で未来の選択を変えさせることができるのならば――そう考えて、一瞬手を止める。
 権力は、私利私欲のために使うとろくな事がない。とは思う。しかし『聖皇の座』という長い苦しみと引換えに、愛するものを苦難から救うことができるのならば、それは等価交換にはならないだろうか。勿論、人々は救いたい。できる限りの犠牲を出さずに、だ。
 だが、その前に人柱になる弟を救い上げたかった。彼はそんなものに縛られていい人間ではない。聡明で、利発で、素直で……そして何よりも笑顔と空が似合う。
 と、そこで探しものの資料を拾いあげた。『希望の種』と『人柱』に関しての資料だ。束ねられた紙を、流し読みながらパラパラとめくっていく。そしてある一文に目を止めた。
 『リンク適合者の条件』そう書かれたページを、彼は食い入るように読み進めた。

 この国の政治や軍事機関、そして法律はとある組織を頂点に動いていた。その機関の名は枢機議院。枢機卿の位を持つ者だけが出席を許される、政治機関の一つだった。その下に各部省が機能している。その枢機議院と聖皇の決定によって政治は動いていくのだ。
 遠征前に司祭枢機卿になったばかりのレネシアは、この議会に参加するのは二度目だった。一度目は神殿監察官として遠征に出る前で、正式に任務を授かっただけだが。あの場の空気は察するには十分だった。そうして、昼からは枢機卿として、枢機議院会に参加した。
 枢機卿と言ってもピンからキリまで、敬虔なる使徒から、学者から賢者に上がり位を得た者まで様々だった。中には権力を得て私利私欲に走る輩もいないわけではない。しかし枢機卿になるまでの道に、民衆の支持というものは必要不可欠で、そういう意味では民主主義にやや近く、過度な政治腐敗を免れているのがこの国の特徴だろう。
 このご時世だ、逼迫した議題が山のようにあるため、連日のように議会は開かれている。出席率もすこぶる高いようだ。のうのうと遊んでいたら、己も死ぬ。それを一番よく知っているのも、彼らだからだ。
 レネシアは数日間、午前は研究室に通い、賢者としてこれまでの知識を埋め、午後は議会に必ず出席した。まずは拾いきれていない知識の吸収からだった。

 そうやって、拾い集めた知識を少しずつまとめていく。
 まず『希望の種』についてだ。人柱が必要なことは既に周知の事実で、誰が人柱になるかも議論されていた。
 レネシアも条件を調べたが、まずは自らリンクできうるほどの知識がいること、次に年齢――できれば三十代までの生命力の高い若い肉体が好ましく、魔術力もそこそこの術者程度は必要だった。そしてなにより、精神力だ。リンクするということは、人の体の構造そのものを変化させる事になる。いわゆる、人体強化に近い。強化すると同時に数々の弊害や副作用が起こるだろう。だがその時、何が起こるかは未知数だった。
 なお、この条件に当てはまる枢機卿や賢者は五人にも満たない。だからこそ、しがらみの少ないゼフォンの名が一番に挙がっているのだ。
 次に『希望の種』の発芽場所だ。これについての選定はほぼ終わっていた。ここより北西に位置するアタクトスという未開拓地域がそこにあたる。しかし、そこへ陸路で至るには霊峰アトス山とケルソス砂漠を越えなくてはならない、というのが最大の課題だった。
 霊峰アトス山は修道士や探検家しか登ることがない、断崖絶壁が続く険しい高山地帯だった。おそらくここを越えるには、テラスファルマも時間を要するだろう。
 そして、それに続くケルソス砂漠は、強い砂嵐が吹き荒れ、砂漠特有の強い日差しが降り注ぐ、『死の砂漠』とも呼ばれている難所だった。こちらも、餌が極端に少ないため、テラスファルマが越えてくるには時間がかかるだろう。
 その先が開拓されていない土地アタクトスだ。
 一帯全てがその地名で纏められており、少しばかりの先住民族が住み、様々な地形や自然が豊かに残っている……程度しか知られていない未開の地だった。聖なる山アトス山を挟んでいるため、この国の宗教上、これより北は侵略戦争を起こしていなかったのだ。
 必要な物資や人材は海を経由して北へ運ぶことができる。だがその船に全国民を乗せることは叶わないだろう。すなわち、国民の大多数が生き残るためには、どうしても彼らを、自力でアトス山と砂漠を越える者達と、この地に残る者達とを二分せざるを得ない。
 勿論、そんな事を公表すれば大規模な混乱へ繋がるだろう。いくら敬虔な使徒が多いといっても、命に関わる事となれば別だ。それを抑える力もまた必要だった。
 物資や人材の輸送については、既に計画は進行しており、皇都オムファロスの軍港には大規模な船が次々と入港し、搬送される物資がかき集められていた。
 時間は、そう残されていなかった。
 つまり、考えられる時間も残されていない、という事だ。
 そうして、また今日が終わる。

 聖皇の言葉は、レネシアの胸でくすぶり続けていた。思うことは色々とあった。おそらく、聖皇にならなければゼフォンは救えないだろう。ただ、うまく踏ん切りがつかなかった。
 クレオブロス卿の言う『聖皇』になるには、意識的な神との同化を求められる。
 例え、それが見せかけだけの同化であっても、それは人に多大な影響を及ぼすだろう。きっとそれは、国民の混乱も最小限に抑えられる。聖皇ではなく、神の名を語ると言うことは、そういうことだった。
 嘘偽り、神を名乗る。それは許されざる行為なのではないだろうか?
 けれども、神はいない。あれほど願えども、祈れども、乞えども、救いの手は差し伸べられなかった。
 人々を救えるのは、神しかいない。なのに、神がいないのならば――ならば、造るしかないのだ。
 それを、自分がこなせるのか……?人を騙せるのか?そこまで傲れるのか?

「君は絶対に僕が守るからね」

 あの時聞いた、ゼフォンの言葉が蘇る。小さないのちが決めた決意は胸に深く刺さった。彼が苦難の道を選んだというのならば、それに応える必要があるのではないか……。
 レネシアは、夜の星を見上げながら、静かに拳を強く握った。
 何故か無性に、泣きたかった。



 翌朝、レネシアは真っ先に聖クレオブロス卿の元へ向かった。聖皇の取りはからいにより、レネシアはいつでも私室へ通されるようになっているらしく、すぐさま塔へ案内された。
 長い階段を上がり続け、扉の前で立ち止まる。息を深く吐き出し、そして吸う。背筋を伸ばし、衣服を整える。少しでも迷わないように、機械的に扉を叩いた。
 聖皇は、既に完璧に身支度を終えていた。朝の礼拝が始まるよりも、うんと前に起きているらしい。しかし、今日はそれよりも早く目が覚めたようだった。
「あなたが来る。そんな気が、したものですから」
 いつもの柔和な笑みを崩さず、聖皇は着席を勧めた。レネシアはそんな彼を軽く手で遮ると、片膝を付いて頭を垂れた。その瞬間、ピンと空気が張り詰める。
「聖クレオブロス卿。聖皇の座、謹んでお引き受けします」
 もう、迷わないように。未練を全て断ち切るよう、簡潔に。一言で言い切った。
 正直、聖皇という神になるなど、大それた事だと思っていた。けれども、そう……彼の、ゼフォンの言葉を借りるならば、それで大切な者が救えるのであれば安いものなのだ。だから、もう引き返さない。引き返せない。
「……そうですか」
 柔和な笑みだったクレオブロス卿は、今や満面の笑みを讃えていた。目尻に涙さえ浮かべていた。彼はレネシアと同じく膝をつき、その手をすくうと祈るように包み込む。
「ありがとうございます、レネフェリアス。聖皇の道は、苦難の道となりましょう。その道に少しでも希望の光が差すようにと、私は願っております」
 未開の地へ発つ、新たな聖なる国の王。国の王にして神。その肩書の力は、きっと絶大な力を誇るだろう。これで、多数の心が救われる。
 レネシアも、そのクレオブロス卿の真摯な心に、応えるつもりでいた。だが、それは、あの願いが叶えばこそだ。
「一つお願いがございます」
「なんでしょうか、可能な事であれば、できる限りのお力添えはしましょう」
 レネシアは、聖皇の手を握り返した。彼を情報操作するための道具にするのは心苦しいが、聖皇にも一芝居打ってもらわなければならない。あの選択肢を変えるために。






神よ、あなたの世界は 3 へ

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