【登場する人】
ナタク、太乙、李靖、殷氏、楊戩
【CP】
ナタ乙
【備考】
EDその後で殷氏が臨終する話と太乙が過去を語るお話。
人死に苦手な人は注意です。
※私の書いている他のナタ乙とリンクしている部分があったりなかったり?
蓬莱島へきて数年、仙人界と人間界との関わりも少なくなってきた頃、その事件は起きた。
まだ人間界にも霊獣は存在するし、天然道士は生まれでてくる。それらの存在を蓬莱島へと連れてきたりする者や、まだ人間との繋がりを持つものも多少残っていたが、その数は年々減っている。
李靖もその一人だ。人間の妻を持つ道士。まだ仙人にはなれていないが、特例として蓬莱島との行き来を比較的気軽に行うことができる特異な人物だった。
そんな彼が、新しい乾元山へ訪れたのは、もう陽も暮れそうな時間帯だった。しかも楊戩を伴って、蓬莱島教主専用の宝貝に乗ってだ。出迎えた太乙真人は何か嫌な空気を感じ取る。この組み合わせを見るだけで大体の予想がついてしまうからだ。
「太乙真人様! ナタクめはおりますか!」
李靖は慌てているのか、宝貝から降りずに声を張り上げる。目上の者に対して無礼ではあるのだが、それくらい急を要する事なのだろう。
「彼は北の山まで一人で修行に出ているよ。そろそろ帰ってくる頃だと思うんだけど」
彼は律儀に夕刻に帰ってくる。今頃こちらに戻りかけている頃だろう。
「僕が迎えにいきましょう。哮天犬で匂いも追えます。太乙様は李靖と共に、先に人間界へ向かって貰っていいですか。話は道中にてお願いします」
楊戩は腕から哮天犬を取り出すと、素早く飛び移り北の空へ駆ける。その速度は矢よりも速く、直ぐさま米粒の大きさになっていた。彼もかなり、急いでいる。
太乙は手短に黒の衣を手に取ると、軽やかに宝貝へ飛び乗った。
「突然で申し訳ありません」
「殷氏の件だね」
「そうです。ここ数日は元気にしていたのですが、一昨日から一気に容態が悪くなり、雲中子様によるとあと数日だと……」
元々、殷氏は健康であったが、歳を重ねれば病も患う。彼女は数年前に病を患ったと人づてで聞いた。
人はいつか死ぬ。道士や仙人に比べれば短い命だ。だが平均寿命を考えれば、殷氏の生きた年数はかなり長いといっていいだろう。関所の主を主人に持つ夫人であり、摂れる食事も安定しており、かつ健康状態も良く、関所を仮に治める事もある女主人として武芸も多少は嗜んでいた。ゆえに長生きしたのだろう。
そんな彼女が患った病は、現在雲中子が研究の対象にしているものの一つであり、度々彼は人間界で診療という名の研究を行っていたのもある。
その彼が余命幾ばくと言うのだ、間違いない。彼女は数日以内に死ぬ。
彼女は道士でも仙人でもない『ただの人間』だ。その魂が封神台へ飛ばされることはない。
故に楊戩と李靖は、殷氏の臨終にナタクを立ち会わせるために探しに来たのだ。
「許可は既に下りています。教主様は下りられませんが、太乙様の分も許可をいただきました。殷氏が貴方にも会いたがっておりまして……どうか、会ってやっていただけませんか?」
殷氏に会ったのはナタクでの件以来だ。個人的な親交は殆ど交わして来なかった。
けれども、太乙には彼女に伝えたいことがあった。言わなくても良いような事なのかもしれないが、ずっと胸に渦巻いている思いだ。
「そうだね。その機会を貰えるならば、喜んで」
「ありがとうございます。ではこのまま人間界へ」
太乙は操作盤へ手をかざすと、真っ直ぐに封神台へと向かった。
久々に下りた人間界は、離れたときから大して文明は進んでいなかった。仙人が蓬莱島へ引き上げた今、それほど急激に医療や技術、文明が発達するはずがない。だが、これで良いのだ。
人目を避けるための透過フィールドを展開させると、人通りの少ない関所のはずれにそっと着地させる。それでも多少風が吹き荒れたが、自然風の範囲で済まされるだろう。
仙人や道士の記憶は、人間界から少しずつ風化しつつある。できればこのまま、神話にしてしまわないといけない。そのため、この巨大宝貝を見られるわけにはいかなかった。夜のために人通りは少なく、人気も感じないが、用心に越したことはない。
李靖と太乙は人のいない間に関所の表道へと入り、居住区域を目指す。李靖は仙人界のある蓬莱島と、殷氏のいるこの関所を定期的に行き来しているが、ここ最近は人間界にいる方が多かった。殷氏の状態がよくないためだ。
主の帰還に気づいた衛兵や官吏たちが迎えに出てくるが、李靖は持ち場に戻ったり休むように言い渡す。皆、殷氏を心配しているのだ。聡明で明るく、兵士たちにも優しかった殷氏の危篤はこの関所全体に陰を落としているかのように見えた。どうしてか、等間隔に灯されている明かりがとても寂しく見える。
太乙は李靖が殷氏の様子を見に部屋の奥へ入っていくのを黙って待った。
窓から覗く月が爛々と輝いているのを見ると、とても人が臥せっているような気はしない。ここを通る風も清涼で、ゆえに彼女も病を患ってもなお、長く生きているのだろう。
部屋から出てきた李靖が太乙の元へ近寄る。何言か言葉を交わしてきたらしい。彼女は起きているのだろう。
「ナタクの奴もそのうち来ると思います。とにかく、時間がどれだけあるかわかりません。……突然ですが、今のうちに会っていただけますか」
「彼女の容態は問題ないのかい?」
「昔から、辛いことはあまり表に出さない妻でして……。それよりも貴方様と話がしたいと言われてしまいました」
「わかった。じゃぁ先に面会させてもらうよ。大丈夫だと思うけど、ナタクが帰って来たら、騒がないように言い含めて貰えるかな」
「私の言うことを聞くとは思いませんが」
「殷氏の件だ、大丈夫だよ」
ナタクは仙人界へ移っても、常に殷氏の事を気にしていた。
実際に親子の縁は切られているから、李靖のように簡単に人間界へ下りる許可は出ない。それでも常に母の容態を気にしていた。雲中子が仙人界に戻ったら、逐一彼に会いに行くくらいだ。李靖に聞きに行かないのは相変わらずだが、縁を失った今でもナタクは殷氏を母親として慕っていたのだ。
太乙はその感情を何より大切にしてきた。ナタクが人を尊ぶという事を最初に覚えた相手だ。今じゃたくさんの人を尊ぶことができるようになったナタクだが、太乙にとっても殷氏というのはある意味で特別な存在だった。
できるだけ静かに部屋へ入る。そこは美しく清潔に整えられた部屋で、これまた綺麗に整えられた庭園が見える大きな窓が印象的な一室だった。なんというか、客間に近い。おそらく最期の場所に、殷氏がここを選んだのだ。
「この気配。仙人様ね」
近づく前に、声が通る。勿論、殷氏の声だ。
「こんばんわ、久方ぶりだね。私は太乙真人。貴女にどうしても伝えたい事があって、無理を言って下りて来たんだ」
「こんばんわ、仙人様。あなた様に会うのは何年ぶりかしら、また会えて嬉しいわ」
老いているのに、玉を転がしたような声音は、優しく耳に響く。見た目も老婆のそれであるのに、声も覇気は失っているのに、か細くとも慈愛に満ちているのがわかる。
「……傍に、寄っても良いかな。貴女に言いたかった事があるんだ」
急いで飛んで来たため、何も土産がない。とても手持ち無沙汰だった。
「勿論ですとも。私もあなたにずっと言いたい事があったの。私にナタクを授けてくださってありがとうって。仙人様もそうなんでしょう?」
さらりと、殷氏は言い当てる。瞬時に予想をしていなかったわけではない。けれども、その答えがあまりにも正解すぎて、太乙は苦笑しながら寝台の脇へと近づいた。
「おや、伝えたかった事がもう既にバレてしまっているとは、恐れ入るね」
「ふふ、だって私もあなたも、親ですもの。あの子を愛した、母ですもの。わかりますとも」
「母かぁ……」
親だとは思っていたが。母と言われるとは思っていなかった。しかし『生み出した』と捉えるなら、やはり母なのだろうか。
おもはゆげにする太乙を見上げながらなお、殷氏は笑顔で喋る。決して大きな声ではないが、静かなこの部屋では十分だった。
「あの子ね、帰ってきた時に、あなたの話ばかりするの。やれ帰ったら手を洗えだの、ご飯ができるまでに帰ってくるようにだの、服を脱ぎ散らかしたままにするなだの……聞いていてまるで母親のようだわって思ったわ。でも私が甘やかしてしまったせいなのねって、後から気がついたの。面倒をかけて、ごめんなさいね」
それはもう、遠い遠い昔の話だ。太乙がそのようにナタクの世話を焼いていた時は、まだ崑崙山がそびえていた。あの頃はなんだかんだで楽しかった。戦いを目前にしつつも、ナタクに今より嫌われながらも、ハチャメチャながらに楽しく暮らしていた。
「幼い弟子を迎えた仙人は、そういうものなんだよ。だからあなたのせいじゃない」
あの頃、最も精神的に幼く、戦闘力だけは己より高い弟子を持て余していた。勿論、子を育てたことも、まともに幼い弟子をとったこともない太乙は、毎日大騒ぎしていたものだ。だが、殷氏の躾が悪かったなどと、考えた事などなかった。
子を産むということは、母親が死ぬ可能性もあるということだ。特にナタクの場合は危険な出産でもあった。それでも快く、さも当然のように殷氏は自分の子を産む決断をしたのだ。
「ふふふ、ありがとう」
「こちらこそ。…………ナタクを産んでくれて、そして愛してくれてありがとう。私に弟子を与えてくれてありがとう。私のあの実験は、死産の肉体に魂を移しこむ必要があった。それは一見、人として冒涜的ですらあっただろう。それでもあなたは、私の提案を受け入れてくれた。そして生まれでた異形の子を、怖がらずに心から愛して育ててくれた」
あれで父親だけでなく、母親までも彼を愛さなかったら、ナタクはどうなっていただろう。そう考えるとゾッとする。
人を好きになるということ。
人を愛するということ。
人を慈しむということ。
人を悲しませたくないということ。
そして、人のために何かをしたいということ。
それらを全て、ナタクに教えてくれたのは殷氏だった。霊珠のプログラムにそんなものはない。だが、それは『人』になるために一番必要なもののカケラだった。
「でも、仙人様がもし私でも、同じことをしたでしょう?」
「どうだろう……」
自分では与えることはできなかったのではないだろうか。
つい最近まで疎遠もいいところで、大戦中は故障するまでまともに帰って来てもくれなかった。
常に愛するようにと接して来たが、常に嫌われている覚悟と思いがあった。どれだけ愛しても、大切にしても、慈しんでも、通じない心に挫けそうな時だってあった。けれど、最終的に見捨てることなどできないのだ。それが親なのだ。
「私にはわかりますとも」
「私のほうが何千年も生きているのに、いつの時代も母親というものには敵わないなあ」
自分も『母親』だったら、こうあれたのだろうか。ふと思う。けど、今の自分とナタクの関係も嫌いではなかった。だからこそ、ただただ感謝する。生みの親に。
「ねえ、仙人様。私はただの人間です。きっと魂だけになっても、夫とも、子であるナタクとも、二度と会うことはないのでしょう」
普通の人間は封神台には行けない。その事を彼女は知っているのだ。
「そう……だね」
「だからどうか、あの子の事を宜しく頼みます。少し悔しくて寂しいけれど、あの子は私に似てとても寂しがりやだから……。どうか、あの子を導いてあげてくださいな」
ナタクが殷氏から継いだところは何も思い当たらないが、母親から見るとそうなのだろう。縁の少ない彼の事を心から案じているのだ。
「あなたの最期の望みとあらば、喜んで引き受けよう。あの子には面白くない話かもしれないけれど」
「そんな事はないわ、だってあの子はあなたを愛しているもの。これは母親の勘です」
小さい声で、でもきっぱりと言い切られる。そこまで断言されると不思議とそんな気にもなって来るのだからすごい。
そこでふと、いつもの機械音を遠くに聞いた気がして、太乙は顔を上げた。どうやら、弟子のお出ましらしい。
「そうだと良いけれど。……さて、そろそろ時間かな。李靖とナタクを呼んでくるよ」
遠くから、殷氏を呼ぶナタクの声が聞こえる。あれほど静かにと言ったのに。言うことを聞いてもらえないのは李靖も自分も一緒で、心の中で笑ってしまう。
けれど親を亡くす悲しみを前にしたナタクに、太乙はそれを止める言葉は持たなかった。
最期に、殷氏は美しく笑う。今にも消えてしまいそうなのに、その華やかさに太乙も笑みを浮かべて返した。
「ありがとう。そしてさようなら、仙人様」
「ああ、さようなら、殷氏」
静かに部屋を退室すると、廊下の先から李靖に静かにするよう怒られながらも走ってくる二人が見えた。
「お前も来ていたのか」
「うん、少し話をしていたんだ。でもここからは君たちが傍に居てあげるべきだね」
「そうか」
「申し訳ありません、太乙様。侍女に部屋を手配させています。今日はどうか、ゆるりとお休みくださいませ。明日までには……おそらく終わりますから」
李靖は追ってきた侍女に案内を任せると、ナタクと共に殷氏の部屋に入って行った。それを見送ると太乙は侍女に続いて廊下を歩く。
侍女の表情も重く、どれだけ殷氏がここで愛されていたかを悟ると、黙って窓を見上げる。そこには死にゆく人を見送るには、あまりにも美しい月が煌々と輝いていた。
「感謝しかないなぁ……」
「私も、です」
ふと零してしまった言葉に、一息おいて侍女から返答があった。たった一言だが、声が震えていたのがわかる。続いて鼻を啜る音も。
「だよね」
たったそれだけのやり取りなのに、人を亡くす悲しみを共有する。こんなの、いつぶりのやり取りだろうか。いつだって死は悲しみを連れてくるのだ。
いくら仙人が長生きといっても、自分の心は摩耗することはないようだった。そうして魂魄の飛ばないこの死を静かに悼む。今夜は長い。太乙はせめてその最期がたくさんの優しさに包まれるよう、月に祈った。
それは殷氏を看取ってから暫くしての事だった。
仙人や道士は死んでも魂魄が飛ぶため、人間の行う葬儀への参列はナタクにとって新鮮だったようだ。
そう、李靖はナタクの葬儀参列を許した。相変わらず不仲な親子ではあったが、殷氏が愛したナタクを、彼も無碍にできなかったのだろう。
太乙は報告のために葬儀には参列しなかったが、彼女の冥福を祈って最後に花を添えてきた。
これで李靖は関所の主を退官し、本格的に蓬莱島へ戻ることになるだろう。人間界でその手続を終える頃に迎えを出さなくてはいけない。そんな報告諸々を太乙が受け持つ事になったのだ。
数日後、李靖よりも早く帰ってきたナタクは、いつもの見回りという名の修行にも行かず、数日部屋でぼんやりと空を眺めていた。太乙はあえて何も言わず、淡々と世話をしながら生活を送る。最近、ナタクは自分の事は自分でやっていたため、少し昔に戻ったような気分だった。
母親か。
殷氏に言われた言葉を心で反芻しながら洗濯物を取り込む。昼過ぎの爽やかな風が髪を揺らしていく。もう既に、太乙がナタクにしてやれることは何もなかった。時折メンテナンスを行うくらいで、彼に教えることは何もない。
彼が修行に出て、いつか仙人になる日を陰ながら支えるだけだ。『師弟』という言葉は疎か、もう『親子』という言葉すら遠くなってしまった。そんな自分に何ができると言うのだろうか。
取り込んで部屋へ戻ると、珍しくナタクが居間に下りてきていた。お腹でも空いたのだろうか。
「おや、ナタク。起きてきたのかい」
身内を亡くした時の精神的なダメージは、太乙も十二仙を亡くした時に痛いほど味わった。そこから立ち直るまでに時間があまりにもなかったから、太乙は涙を拭いながらも立ち上がるしかなかったが、今のナタクはそうではない。ゆっくりと心の傷を癒やしてほしい。
だが、ナタクは太乙の姿を見つけると最初から用意していたというように、質問した。
「なあ、何故お前は、俺を……霊珠子を創ったんだ?」
「いきなりどうしたの」
確かにナタクの生い立ちはとても複雑だ。数多く居る仙人の中でも、二度目の生を受けた者などそういないだろう。それを引き起こした太乙ですら特殊だと思う。偶然が重なった結果とも言えるし、必然であったとも思えた。
「俺は趙公明の船で戦ったアイツしか、同じ存在を知らない。俺は偶然できた産物なのか? だから兄弟がいないのか?」
質問の意図を掴めなくて、太乙は首を傾げる。
「ふむ。君は弟や妹が欲しいのかい?」
「そういうわけではない。ただ、気になっただけだ」
本来なら死ぬべきだった肉体。そこに吹き込まれた魂。異形の存在として生まれでた体。幼少期を人として育ち、自ら消し飛ばした肉体。そして再び蓮の化身として世界に降り立った彼は、仙人でも道士でも人でもなく、蓮の化身の兵器だった。
兵器であれば量産される事もある。現にかの仙界大戦では二つの陣営が様々な量産型の兵器を投入していた。けれど、宝貝人間という兵器はナタク一人だった。
勿論、それには理由がある。
「そうだねえ。少し長い話になるよ。でも君が気になると言うのなら話して聞かせよう。……と、いうか知る権利があるし、話さないわけにはいかないね」
「聞きたい」
真っ直ぐ、ナタクの目が太乙を射抜く。太乙は肩の力を抜くように溜息をつくと、長椅子に座って洗濯物をたたみ始める。そうしながらも、ゆっくりと、記憶を辿りながら語り始めた。
「昔々、まだ私が仙人になりたてだった頃の話さ。仙人は道士から昇進したら基本的には弟子をとらないといけないものでね。何故かというと人間界で見つかる仙人骨持ちの人間より、それを育てあげる仙人の方が遥かに少なかったからなんだけど。……私は色々と理由をつけて弟子取りを渋っていたのさ」
そういえば何度か耳にしたことがある。「あの弟子をとるのを嫌がっていた太乙真人が弟子をねぇ……」などという噂を、自分を見ながら囁く仙人の姿を何度も見た。本人は聞こえないように話しているのだろうが、耳の良いナタクには問題なく聞こえていた。
中には数十人の弟子を取る仙人もいたそうで、弟子を取らない太乙はやっかまれていたのだろう。
「勿論、私は元始天尊様の直弟子であったから、多少のわがままもきいて、あーだこーだと文句とつけて渋りに渋って、暫くは弟子を取らなかった。けどとうとう言いくるめられてね、弟子をとることになったんだ」
それが自分ではないことは、話しぶりからわかる。ナタクにしてみれば少し意外だった。
「お前にも弟子がいたのか」
「そう。私と違って文武両道でね。何でもできて気配りもできる聡く優しい子だった。というか、私が弟子をとる事にした決定打の言い分が『それなりの齢の弟子を取れば弟子が師の世話をしてくれる』だったからね。私は研究に没頭して家事や自己の健康状態の管理といった周囲の事を蔑ろにしがちだったから、弟子という名のお手伝いさんが来るならそれもいいかと……」
理由を聞いて思わずナタクの目が座る。最近こそ研究に没頭して部屋が荒れる事も少なくなったが、ナタクが人間界へ下りていた頃は、洞府に帰ったら金光洞が荒れに荒れていたということがザラにあった。
まさか弟子を手伝い代わりにとっていた時代があるとは思わなかった。
「なかなかに酷いな」
素直に感想を述べる。
「今思うと最低だよね。でもその頃は独立したてで家事も上手くなかったんだよ。白鶴がいるから元始天尊様の直弟子は師の面倒なんか見なかったし。しょうがないじゃないか。それに、かなり大きくなっても世話を私に焼かせてたキミに言われたくはないなぁ」
「む」
それを言われるとぐうの音も出ない。幼き頃のナタクにとって、太乙が家事全般、世話を焼いてくれるというのは当然だったのだ。自立できる歳になれば世間ではそうじゃなくなると気づいた時、少しだが焦ったことを覚えている。所謂、ナタクの黒歴史の一つだ。
「まぁ、それは今は置いておこう。人は成長するもので、今ではちゃんとやってるからノーカンかな。でももっと早く、君は家事を履修すべきだったよねー」
「やれと言わなかったお前が悪い」
「言ったら絶対怒って逃げ出しそうだから、あえて言わなかっただけだよ」
確かに、昔の自分であれば直ぐ様、激怒して家から飛び出していただろう。
「とにかく当時はそんな理由で弟子をとったんだけど、直ぐ様教えることはなくなってしまって。……文武の『文』の部分はいくらでも教えられるんだけど『武』の部分はてんでダメでね。私は護身術くらいしか身につけていなかったし当然なんだけど」
「俺はお前に稽古をつけてもらった記憶すらないぞ」
「君の場合は霊珠子に既に基本的な戦闘データを書き込んであったから、武道の面で教えることは本当に何もなかったんだよ。その子も、その基礎部分くらいしか教えることはなかったけどね!」
綺麗にたたんだ服を積みあげながら、太乙は自慢げに鼻高く笑う。
「得意げに言うことか?」
「まーまー、とにかく。私には便利な家政夫さん兼弟子ができて、ようやく仙人らしい生活になったわけだ。賢い子だったから様々な知識も授けたし、共に研究をしたりもしたかな。それなりに長い時を共に過ごしたよ。文武両道の子だったけど、師匠の私の影響もあってか、どちらかというと武の道より研究肌タイプでね。50年くらいは一緒にいたかな……」
懐かしげに目を細める太乙を見ながら、ナタクも長椅子の隣に座る。手の止まってしまった太乙の代わりに、手拭き巾を一つ手繰り寄せる。
人に話をして聞かせるという行為は、太乙は不得手ではなかったが、ナタクにとってはあまり得意ではない。だから、記憶を思い返し、それを紡ぐ作業をしている太乙を妨げようとはしなかった。
「仙人になるには、個人差もあるけど50年から100年くらい修行期間を置くものでね。彼もあと数年も経てば立派な仙人になるだろうなって、研究仲間が増えるなら私としても嬉しいな~なんて気楽に考えていた時だったよ」
太乙の声音が少し下がる。その僅かな差を感じたナタクは、それだけで不穏な空気を感じ取っていた。
「何があったんだ? そいつは仙人になったのか?」
「ううん。彼は、拐われたんだ」
やはり。だって、その彼に何もなければ、例え仙人になったとしても兄弟子として紹介されていただろう。
「お前のところはいつでも誰かしら誘拐されるんだな」
「まあねえ。その頃、私は十二仙の頭脳担当としてそこそこ知名度が上がって来た頃で、私を釣る為の餌として彼は金鰲島の連中に連れ去られたんだよ。丁度、修行で崑崙の外れまで出ていた時を狙われてね」
ナタクが弟子になった後も、何度か太乙を狙った動きは起きている。未然に防がれているのもあったが、実際危なかった事もあった。
「追ったのか?」
「もちろん、聞いた途端、本能的に走ってた」
「罠だとわかっていたのにか?」
存外、彼は感情的なのだと、今のナタクにならわかる。他の長寿の仙人に比べて太乙の喜怒哀楽は今なおハッキリしている。それが若い頃ならば、余計逸ったことだろう。
「そう。居ても立ってもいられなくて。でも、結果的には他の者に止められてしまったのだけど」
「じゃあ、そいつはどうなったんだ」
重い沈黙が流れる。大体それで察せてしまうが、太乙はゆっくりと言葉を紡いだ。
「帰って来たよ。他の者に助けられて。……でももう、戻った時には殆ど動けない状態だった。逃げる際に深手を負ってしまってね。もう助からないって、素人の私でも見てわかった。ただ、彼が持ち帰った情報が重要だった」
「金鰲島のか」
「そう。彼は金鰲島内部に連れて行かれて、研究や文明の進み具合といった技術力を見せられて、その反応で崑崙山の内情を把握しようとしたみたいだね。そこで彼は、既に量産されかかっている兵器を見たのさ」
拐われた代わりに、命と引き換えにして情報を抜き出したのだ。太乙と共に研究していたからこそわかった知識もあっただろう。だが抜け出す際に深手を負った。その弟子も、太乙の心も。
「昔から、いつか金鰲島と崑崙山は避けられぬ戦いをするであろうことは、なんとなく感じていたんだ。今だからわかることだけどね。彼は力を振り絞ってできる限りの事を話してくれたよ。最期、事切れるまで」
思い返せばやはり辛い記憶なのだろう。太乙は死を悼む。それは元来の彼の性格なのか、十二仙として取り残されてしまったのかはナタクにはわからなかった。だが、師が辛い顔をしていると、自分の胸も軋むように痛くなるのを感じた。
「……死んだのか」
「うん、その時はまだ封神台はなかったからね」
今、封神フィールドが張られているこの状態であれば、仙人や道士、強い魂を持つものは死ねば封神台へと魂が飛ばされる。だが、それがなかった頃は、当然仙人も道士も死ぬのだ。先日逝った母のように。肉体を残して。魂は何処かへいってしまうのだ。
ナタクにとって、それは封神されるより辛いことだった。封神台はいずれ自分たちも行き着く先だと言われている。だからあそこへ行けば、二度と会えなくなるわけではないのだと。けれど母にはもう会えない。会えないのだ。
「……そうして初めての弟子を喪った私に下った指令が、同じく量産できる対抗兵器の開発だったというわけだ。それが完成するなら弟子も取らなくて良いとすら言われた。流石に私も若かったから復讐心に囚われてしまっていてね。私は弟子が死んでまで持ち帰った情報を元に、なんとしてでもそれらを完成させると誓ったんだよ」
起爆剤は、やはりそこにあった。親しき者の死。今のナタクになら、わかる。もし母が誰かに殺されていたら、呪われてでも相手を手にかけていただろう。
しかし、ふと考えると量産された兵器などいない事に気づく。太乙は自分しか作っていない。明らかにおかしい。
「そのわりに量産されたものは黄巾力士くらいしかないように思えるが」
そんな素朴な問いに、太乙はやっといつもの調子を取り戻して答えた。
「そうなんだ。結局の所ね、兵器の量産なんて柄じゃなかったのさ。魂の宿らないものを作るのはいくらでもできるけど、強さを求めたら量産なんかじゃ物足りなくって、試行錯誤を重ねて霊珠を創ったわけだけど。でも魂の宿っていないモノでは、霊珠は絶対に動かなかった。動いて命令できても柔軟性がなかったりね。何度も何度も考えて直して創って……てしてドン詰まっていたら、雲中子に「生き物の体を媒介にしてみれば?」って言われたんだよね」
なるほど、合点がいく。
「それで俺ができたのか」
だから量産されなかったのだ。最初で最後の実験体。あれほど長い期間、母胎の中にいた肉の塊など、自分しかいないだろう。
「受肉させるために核から全て造り直したけどね。でも雲中子は元々生物学の人だからあまり抵抗がないのかもしれないけど、私はどうも人の体を媒介にすることに抵抗があって……最後まで悩んだよ。君の母上が魂を亡くした子を身ごもっているって聞いた時も」
「そうなのか?」
少し意外だった。母からよく聞いた「仙人様像」は凛としていて華やかで、高圧的な言い回しのわりに優しい雰囲気だった……と何度も聞かされたからだ。
「何せ、前例がないんだもの。そりゃあ研究者なんて第一人者になるための存在だけれど、命を冒涜的に扱うのは嫌だったんだ。科学者が何を言ってるんだって、鼻で笑われそうだけどね。でもその咎を負う覚悟も決めた。でないと大切な人がもっと死ぬ未来が来るから」
確かに、あの戦いにナタクがいなければ、歴史も大きく変わっていた事だろう。ある意味、その決断が今のこの世界に繋がっているとも言える。
命を弄ぶのは冒涜的だ。ナタクとて今はそう感じる。昔、趙公明との戦いの時に、珍しく厳しい表情をしている太乙を見たことがある。あれはそういう意味だったのだと、後になって知った。それでも自分を戦地へ送らなければいけないことに、言葉にできない矛盾した悔恨を抱いていることも知っていた。
洗濯をたたみ終えた太乙は、長椅子に足を上げると、蹲るように三角座りをする。
「私は元から、戦うことがあまり好きではないんだ。特に最初の弟子を亡くした後はね。でも私の仕事は戦う兵器を作ることだった。いつか必ず起こる大戦までに戦力を整えないといけないこともわかっていた。でも、霊珠子に肉体を与えるということは、その子を将来的に戦わせると言うことだ。その事が異常に怖かった。だから量産できなかったんだ。怖がって、まずは様子を見ようって……生まれた後の君たち家族に近寄らなかったのは、そういう要因もある。見守ってはいたけどね」
「戦うことが定められている俺を創ったのにか」
「それが必須条件だったからね。でも怖かった。もう、弟子も子も失いたくなかったから……。だから量産じゃなくて、君だけに全てを捧げる事にしたんだ。ある意味、それは逃げかもしれなかったけど。でも、今ここに君がいるからね。戦力集中で間違っていなかったって思ってる。使い捨てじゃない、たった一人の弟子で良かったと今は思っているよ」
顔を向けて、弱々しく苦笑する師を、この時はじめて愛しいと思った。
「そうか」
一言、そう返す。
怖がりが作った最強の兵器、故に量産されなかったのだ。もう何も不思議ではない。
「後は、そうだね。戦いがなくなった後に、君が『生きていて幸せだ』と思ってくれたら言うことはないな。私は兵器を生み出したわけだけど、戦いがなくなったら、もう兵器じゃなくなっていいんだ。人間になっていいんだよ。私だってその任務から降りられるしね」
緩く微笑まれて、思わず時が止まった。ように感じた。いつもの笑顔と何も変わらないはずなのに、目が離せず動くこともできない。
「……」
そんなナタクを他所に、太乙は話を続ける。
「これね、君の母君と最期に話した事でもあるんだけど。私は師匠である前に、やっぱり親だから。生まれてきた子の幸せを願ってしまうものなんだよ。仙人は子供を産めないからね。この幸せを享受できることは素直に嬉しいし、殷氏には感謝してる。あの時、命を弄ぶなんて冒涜的すぎるって雲中子に怒ってしまったけど、今なら平謝りできるくらいだよ」
普段、動物実験や生体実験もしている雲中子だからこそ、そのような発案に至ったのだが、当時の太乙はとにかく怒って悩んで非道徳さにのたうち回って決断したのだ。
しかし、ナタクの答えは決まっていた。例え最初は実験体であったとしても、殷氏が注いでくれた愛情も、太乙が注いでくれた愛情も、どちらも本物だ。気づくのに随分遅れたが、今ならそれをちゃんと理解できる。
「感謝、している……」
「え?」
「俺は、この世界が好きだ。まだ人間と呼ぶには知らないことも多いし、幸せが何かは知らないが、生まれた事に感謝している。母上にも、そしてお前にも。肉塊のままでは、俺は生まれなかったのだろう?」
手を握り、そしてゆっくりと開く。普通の人間の体でも、仙人や道士の体でもないのかもしれない。だが、ナタクはここにこうして生きている事に感謝していた。先日、逝ってしまった魂のない母の体を見た。きっと目の前のこの第二の親がいなければ、きっと自分はそれと同じように、そのまま消えていたのだろう。
「そっか」
「それではだめなのか? ……って、何故泣く?」
ふと、顔を上げて隣を見れば、太乙が泣いていた。ぽろぽろと溢れる雫は膝の上の洗濯物に吸い込まれていく。少しだけ胸が軋む。だが、悲しいわけではないことだけは理解した。
「いや、いいんだよ。気にしないで」
「泣くな。お前が泣くと胸が痛む」
そっと、涙を掬うように目元を擦る。涙は冷たいと思ったが温かくて、太乙の頬に触れている手も温かくて、先日触った、冷たくなっていく母をふと思い出して安堵した。
「ううん。これはね、ナタク。悲しくて泣いているんじゃなくて、嬉しくて泣いてるんだよ」
笑いながら泣く太乙に、また時間を持っていかれる。一体これはどういう術なのだろうか。しかしナタクは、この術は嫌いではなかった。何故だろう、心が軋むのに温かさも感じる。
「そうか、そういう涙もあるのか」
ふと思い至り、太乙の涙を舐め取る。ぽかんとする太乙を横目に、味わって吟味する。
「嬉しくて流れる涙も塩味なんだな」
「そりゃそうだよ。成分は同じだもの」
呆然としていた太乙が再び、声をあげて笑う。そういえば、暫く笑った姿など見ていなかった事に気づいた。
あの夜、母の最期を見届けた日、母に「師を人として、あなたの思うように、大切にしなさい。そして誰よりも幸せになりなさい」と言われた。その時はただただ悲しく辛く、その言葉は心に留まるだけで意味は理解できなかった。
けれど、今ならその言葉が少しだけ理解る。
守りたい。守っていきたい。この笑顔を。この環境を。
何気ない日々が、何より尊いのだと、紆余曲折を重ねに重ねてようやく悟った。
まだこの気持ちの名前はわからない。
母親であった殷氏に抱いていた感情とは別のものだという事だけはわかる。では、親でないなら何なのだろうか?母は「人として」といった。その意味は際限なく広い。
黙って思考していたナタクを見守っていた太乙は、洗濯物を仕分けるとカゴに入れて立ち上がる。それぞれの物を然るべき場所へ片付けながら、思考するナタクへと話しかける。
「ところでナタク。私ね、殷氏に君を母親として導く事を最期にお願いされてしまったんだけど……君としてはどうかな」
元々、制作主として『親』を主張していた頃もあったが、ナタクが嫌がってからは太乙は強く言わないでいた。この単語が二人の間に出るのは久しぶりだ。
「残念だが、それは了承しかねる」
やはり帰ってくるのは否定の言葉だ。
「そっか、やっぱり親は嫌かい?」
亡くしたばかりの穴だ。そう簡単に塞げるものでもないだろう。
しかし、ナタクは太乙の表情を見ると、はっと思いついたかのように立ち上がった。
「そうじゃない。俺は……俺の好きはそうじゃなくて」
そのまま太乙へと一気に近づいたナタクは、太乙の頭の後ろに手を差し込むと、躊躇いもなく引き寄せた。
触れたのは、唇と唇だ。
たったそれだけ。重ねただけで、他は何もない。
だが、ナタクは太乙を開放すると、短く告げた。
「俺が欲しいものは、きっとこうなんだ」
「へ?」
いきなりすぎた太乙の思考が止まる。嫌ではない。嫌ではなかった。
けれど、親?親愛?これは一体何なのだという思いが、ひたすらに思考を鈍らせる。
ナタクとて、その行為の意味を全く知らないわけではない。勿論、知った上でけしかけたのだ。彼は顔を赤くすると、固まったままの太乙を置いて、外の空気を吸いに出ていってしまった。残された太乙は唖然としたまま突っ立っている。
そういえば、殷氏は最期に言っていた。
「だってあの子はあなたを愛しているもの」
あの時は、親だと認めてもらえない自分への、優しい彼女なりの励ましとだと思っていた。けれど、違ったようだ。一体いつからなのだろうか。殷氏よりもナタクとは長く居るはずなのに全く気が付かなかった。母親の勘というものは本当にすごい。
「ほんと、長く生きていると色々な事があるなぁ」
うっすらと茜色に染まりつつある窓の外の空を眺めながら呟く。
さて、これからどうしよう。とりあえず、考える事はひとまず置いておいて、夕餉を作ろうか。思考がゆっくりのナタクの事だ、きっと太乙にも考える時間はたくさんあるだろう。ならば、献立を考えるほうが先だと思い直し、太乙は腕を捲った。
暗いような明るいような話……というか前後でちょっと毛色の違う話なんですが
元々は別の話を「これくっつけてもおかしくならないんじゃないか?」と思い始め……整合性が取れるように矛盾を消しながら書いていったためです。
だから思ったよりナタクの方から接近する話になって我ながらびっくり!
相変わらず面白い話になっているのか自分ではわからないのですが
殷氏と太乙の会話と、太乙の過去捏造は楽しかったです。
私は太乙のことを『蒼穹のファフナー』の千鶴枠さんだと思っているので
マッドサイエンティストというよりかは、やっぱり『親』の要素が強く出て
研究もかっこいい機械も大好きだけど、子供(生み出したもの)の事を思って胸を痛めたり、戦場へ行けない分、戦って傷つく人を減らしたいと考えたり
家族を大事にする人であって欲しいなぁという願望があります。
いつまでも誰かの為に泣いてしまえる人だといいなぁ……
ナタクは親を亡くして初めて認識する『人間の死の観念』だとか
そういうのも勿論体験してきた太乙への思いとか、ようやく「母親」と「太乙」について抱いていた感情の違いとか
そういうのにゆっくり気づいて「ああ、そういうことか」ってなるといいなぁ……
まぁそんな願望を詰め込んだ話になってます。……かね?
面白くなってるといいなぁ(不安)
[2回]
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