「俺は独立しない」
「……え!?!」
そう告げたのは、全ての過程が終わる直前だった。
悩みに悩んだ。考えに考えた。これまでの記憶と、気持ちと、これからを見据えて、ようやく辿り着いた答えだった。
当然、太乙は狼狽えた。
「ナタク、君……何言って……」
「必要ない。独立しなくても、俺は自由だ。だから、このままで十分だ」
独立など必要ない。その強い意志が鋭い視線となり、太乙に突き刺さる。そのままナタクは断言した。
「ここが……俺の家だ」
独立すると言う言葉の意味も知っている。それはもう同じ家にはいられないと言うこと。離れて暮らし、会うことは殆どなくなるだろう。ナタクは寛容にこそなったが、何の用事もなしに他人の家を訪れる事など性格的にできそうにはなかった。
つまるところ、独立とは太乙との決別を意味する。自分の体すら自分で直せてしまったら、いよいよ会うための口実もなくなってしまう。
それでは困る。守ることができなくなってしまう。傍にいれなくなってしまう。
「やだなぁ、ここに来て嬉しい事言ってくれるじゃないか」
俯いたナタクに太乙は近づくと、そっと両の肩に手を添える。
「でも、ダメだよ」
太乙が悲しそうに笑う。
「落ち着いてよく聞いて。仙人の独立はただ弟子が師のもとを離れるだけじゃないんだよ。一人前の仙人として、対等な立場になるための一歩なんだよ。私はね、君の師として、そして親として、こんなに誇らしい事はないよ」
「対等な、立場……?」
太乙は頷いてみせる。
「そりゃあ、私だって寂しいさ。でも、いつか君は親離れをする。それがこの機会なんだよ。それにいつだって好きな時に帰って来ていいんだし。用がなくても戻ってきてもいいよ」
そうは言っても、遠くに離れてしまうと、もう毎日は会えない。
「それにね、君が私の弟子で、私が君の師匠だったという事実はかわらないよ。いつまでも、君は私の可愛い弟子だよ」
「……」
すごく大切にされているのはわかる。
「それだけではダメかな」
免許皆伝を言い渡されて喜ばない弟子はいないと、太乙は思っていた。とりわけナタクとはよく衝突を繰り返した師弟仲だ、独立なんて何の問題もないどころか歓迎されると思っていたのに。一体何が不満なのか検討もつかない。
「ああ、それだけではだめだ」
ナタクは視線を合わせると、きっぱりと言った。
「太乙、俺は……お前の事が好きだ」
「は???」
好き?誰が誰を?
太乙の思考はきれいに止まった。
最近のナタクは本当に良い方に成長を遂げて、こちらを邪険にはしなくなった。普通の師弟仲としても良好な方であったとも思う。けれども明確に好きなどと言われた事はまだ一度もない。そもそも昔は命すら狙われていたし、自分もいつも怒ってばかりいた。そんな相手が自分を……?信じられなさすぎて思考が追いつかない。
そう言えば昔に、ナタクに襲われかけた事ならある。これも何かの間違いなのでは?
そこまで一瞬で考えたが、すぐさまナタクの追撃にあう。
「これは母上に感じた感情じゃない。小鳥や猫や綺麗な景色に感じた好きでもない」
「え???」
「俺はお前の傍にいたい。俺はお前を守りたい。俺はお前を抱きしめたい。そう言う類の好きだ」
「本気で!?」
「俺が今ここで冗談を言うと思うのか」
「だ、だよねえ」
「ずっと……考えて辿り着いた答えだ。俺だって自問自答した。間違いない」
遥か昔に襲われた時、知識不足による何かの間違いだと思った。あの後、二度とあのような間違いが起こらないようにそれなりの知識も与えた。
確かに子としてナタクは可愛かった。初めての成功作というだけではない。本当に親として、子のような存在を得られた事は、寂しがりな自分には大きな事だった。本当の父親が愛さなかった部分も含めて、全てを愛すると誓った。
けれども、別の関係を望まれるとなると、正直よく分からなかった。
「私は何よりも君が大切だよ。けれど、私は君を自分のものにしておきたいだとか、色恋ごとだとか、思ったことがなくてだね。その……少し時間をくれないかい」
「わかった」
動揺を見せる太乙に、ナタクは落ち着いて頷いた。太乙はいつでも待っていてくれたのだ。自分も答えが決まるまでいつまでも待とう。もう昔の無機物のようだった自分ではないのだ。
その夜、太乙は珍しく洞府の屋根で夜空を見上げていた。
弟子に好きだと言われた。
たったそれだけの事なのに、気持ちの整理がすぐさまつかないくらいに動揺してしまった。何年功夫を積んでも、人の感情のやり取りは得意になったりはしない。
実のところ、仙界を見渡してみると、恋仲や夫婦になる師弟と言うのはさほど珍しい事ではない。
長い年月を共にしていると、気が合うものほど関係は深まるし、依存だってする。近親者ではなく赤の他人であるから、倫理観的にも問題はない。男女であれど子を成すことか殆どない仙人だからこそ、その相手が同性であろうと大きく問題視されることもない。
しかし、しかしだ。ナタクと自分に限っては、やはり親子であったようにに思う。例えナタクがその関係を嫌っていても、己にとってはやはり子のような存在だった。
実際に子どもをつくった事はないし、誰かの親になったこともない。初めての完成作品として生んだと言えばそうなるが、産んだかと言われればそうではない。結局のところ誰も抱いていないし、腹も痛めていない。
それでも子であった。子を相手に欲情など抱いたことはない。可愛いと思ったし、かっこいい装備も造ってやりたかったが、やはり欲情したことは一度もなかった。
そもそもそんな感情忘れていた。あぶないと思ったのは、ナタクに押し倒されて悪戯をしかけられた時くらいだ。そこに悪戯以外の思惑なんてないと思っていたし、すっかり忘れていた。
今更どうして……とも思うが、独立して離れるとわかったからこそ思い至ったのだろう。きっとずっと師弟のままであったのなら、ぬるま湯に浸かっていられたに違いない。
ナタクが自分の事を好きだと言ってくれるのは、正直に言ってとても嬉しかった。
ずっと嫌われていると思っていたから、二度と彼に許されないと思っていたから、自分のところへ帰って来るのは彼の体が特異だからであって、本心で戻りたいわけではないと思っていたから。
ナタクが自分を許しており、少なからず好ましく思ってくれている。それだけでどれほど救われるか、幸せに思えたか、計り知れない。
けれども、思いを受け入れるとなると踏みとどまってしまった。
それが本当に彼の幸せになるのか?
それを阻害する存在にだけはなりたくない。
例えナタクがそれでいいとしても。
彼はまだ若い。間違いだってする。
ふと、いつも相談事を持ちかけている変人の友達を思い出す。話をききたい。助言をして欲しい。
しかし首を横に振った。これを決めなければいけないのは自分であった。彼も似たような事で悩み、ちゃんと答えを出したのだから。
そのような思考が延々と繰り返される。冷えた体を褥に潜り込ませても、ついぞ睡魔はやってこなかった。
結局、昨夜は一睡も出来なかった。研究者であるから徹夜などはよくあることで、気怠さや睡魔に襲われながらも朝食の用意を調える。
よく考えればこの普段通りの行為も、すっかり親子の域を越えている。今時、弟子の食事まできっちり用意しているような師匠などほぼいない。
いつも通りの時間に起きてきたナタクが椅子に座ると、卓に朝食を運ぶ。
「おはよう、ナタク」
「おはよう。……寝てないのか?」
流石に何十年と生活を共にしてきたことはある。徹夜してしまったことなど一発でバレている。特段、隠すようなものでもないが。
「それがもう全然寝付けなかったよ」
「すまない。そんな状態にさせたいわけじゃなかった」
ナタクの口からあっさりと謝罪の言葉が出てきて、思わず苦笑する。こんなにあっさりと謝られた事など、かつてあっただろうか。
「いいんだよ。私が悩まなければならない事だからね」
食べるように促すと、ナタクはいただきますと手を合わせて手を着け始めた。
「ほんとうにお前が考え抜いた答えなら、俺は何だって納得する事にしている」
昔ならば無理やり力で奪い取っていただろう。欲しいものは何だって、そうやって腕を伸ばしてきた。でもきっと、これだけはそうしてはならない。それをナタクは理解している。
「ありがとう。君が優しい子に育ってくれて、私は本当に嬉しいよ」
太乙も朝食に手をつける。脳は糖分を消費して働く部位だ。朝ご飯だけは極力かかさないようにしてきた、習慣の一つだった。
食事を終えて、煎れたばかりの茶をのみながら、ふと太乙は問いかけた。
「ねえナタク、君はいつから私の事が好きになったんだい? 全然そんな素振りは見せなかったじゃないか」
「覚えていない。……が、仙界大戦の途中でお前を守らないといけないと思ったことは覚えている。あとお前を攻撃に当てて傷つけてしまった時、消えたいと思った」
遥かに昔に起きた事件が脳裏をよぎる。
「あー、あったね。そんな事も」
「今だから言葉にできるが、滅茶苦茶後悔した」
「あははは、それは私もわかってたよ」
傷ついた人間の体はそう簡単に再生しないこと。失った命は二度と戻らないということ。そうやって、少しずつナタクは学んでいった。そう考えるとあの大怪我は悪い出来事ではなかったように思う。
「うーん……じゃあもう一つ。私のどこが好きなんだい? 嫌われていると思っていたから、何がどうなって転じたのか私にはわからないんだよ」
つい昨日まで本当に勘違いしたままだった。自分の傍になんて本当はいたくないのだろうと思っていた。だからこそ独立して遠く離れようとしたのだ。
だがそれはやはり勘違いなのだ。言葉にしなかっただけで、ナタクのわだかまりが解けたのはかなり前だったのだろう。
ナタクは少しだけ考え込むと、ゆっくりと整理しながら話し出す。
「……俺はたぶん、母上が好きだった。そういう対象にしてはいけないのは知っていたし、色恋の感情ではないとは思う。けれども俺にとって母親は大切な存在だった。絶対に守る。俺には母親だけだった。お前なんて親じゃないとも確かに思っていた。でも、親じゃなくても守りたいと思うようになった。以上だ」
「え。それだけ?」
それだけと言われるとナタクは少しばかり腹が立つ。他にも渦巻いている感情。優しくなれそうなものもあれば、どす黒くくすぶっているものもある。その一つを渋々掻い摘む。
「……あとお前が誰かと話していると腹がたつ。俺がいないところなら尚更だ。お前は俺のものだと言ったくせに」
「確かに言ったね。わりと最近に」
「総合的に考えると、お前が好きだ」
「はあ……」
直球すぎる言葉に、太乙はたじろぐ。今でこそナタクは温和になったが、性格は変わらずストレートだった。真っ直ぐ射抜いてくるナタクの視線が太乙に刺さる。それを感じながらも太乙はうつむいて視線を逸らした。
「私はナタクのことが大切だよ。今でも、何よりも。君には幸せになってほしいし、自由に生きて欲しい。だから、それを阻害する事がないようにと思ったわけなのだけれど……」
「お前の傍にいたい。それが今の俺の望みだ」
「うん……て言われて、正直戸惑っているよ」
本当に嬉しいのは確かだ。しかし、それで良いのかと違う自分が自問する。
「何が障害になっている?」
「うーん。私はね、恋したことがないんだ。色恋ごとに興味がなかったし、それこそ道士の頃は知識の吸収に、仙人になってからは研究に没頭していたし。大切な人も、憧れた人もいなかったわけじゃないけれど、そこまで他人を渇望したことがない。大切な人の幸せこそ願えど、その傍に自分を置こうと思ったことはない。そんな生活を千年単位でやってたものだから、色々と自信がなくってねぇ……。愛ってなんだろう。私が君を大切にしたいと思う心と、何が違うんだろう、て」
視線を落とした先の、己の手を見つめる。ずっと何年も、何百年も変わらない手だ。
「それも愛だ」
「だろうね。けれど、君みたいに触れたいとか独占したいとかは思わないし」
「一緒である必要はないんじゃないか」
「……ナタク」
それは、恋を望まぬと云うことだ。
「俺は、お前が傍にいるなら、何だっていい」
「……」
太乙が顔をあげると、相変わらず真っ直ぐ射抜く視線とぶつかる。その瞳はどこまでも、嘘などついていない。そもそも嘘がつけるような性格ではないのだが、あのナタクがここまで言うのかと、胸がふるえた。
「お前が手を出すなというなら、絶対に出さない。想いを伝えるなと言うのなら、黙っている。……だが俺は傍にいたい。いつでも手の届く範囲に、守ってやれる距離にいたい」
少しばかり焦りをみせる声から、真摯な想いが伝わる。
「…………」
「聞いてるのか、太乙」
「あーーーっ!!! わかったよ! 降参!!!」
「!!!」
「私の負けだ」
次の瞬間、椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がったナタクに抱きしめられていた。いつも喧嘩をしていた時は痛い思いをしていたのに、今はその腕が驚くほど優しくて太乙は苦笑する。優しく背をたたくと、子に言い聞かせるように諭す。
「もともと君が生まれた時から、身も心も捧げたつもりだったからね。その君が離さないと言うのなら、好きにしていいよ」
「じゃあ……離さない」
「うん」
「もう二度と離さない」
「うん」
強く太乙を抱きしめる。昔は手加減がわからなくて、よく傷つけてしまっていた。だが今ならわかる。守りたい。壊したくないという思いが一層募る。これを人は、愛と呼ぶのだろう。
そして、これまでずっと与えられてきたそれを、今度は己が返すのだ。
「あ! ただし、仙人にはなること!」
ふと思い出したかのように太乙が付け足す。その空気の読まなさは正しく己の師だとナタクは呆れる。
「仙人になった上で、私の傍にいればいいよ。何せ、それも君の自由になるんだからね」
勉強しておいて良かっただろう、と茶目っ気たっぷりに笑う師を見て、ナタクはいつも通り無言で頷く。結局のところ、ナタクが欲しかったもの全てを太乙は用意してくれた。その事にナタクは静かに感謝した。
その三ヶ月後、めでたく免許皆伝を言い渡されたナタクは、楊戩から仙名をもらい、太乙真人の弟子から立派ないち仙人へと昇格した。武力のみならず、智力も高く修めたナタクは、当然のことながら高い仙位を得るに至った。
しかし、その新たな住居は太乙真人の洞府の直ぐ傍らに造られ、結局のところ寝室の場所が変わった以外に生活への変化はないという。寧ろよく出払っていた頃に比べ、、太乙の洞府によくいる姿が確認され、元師弟仲の良さが噂に出回る程である。
その様子に、かつてを知る周囲は驚かされるのだが、同時にナタクの成長を喜ぶ者たちにとって吉報でもあった。
「おはよう、ナタク。今日も良い朝だね」
戸を開けると、いつもの朝食をつくりおえた太乙がエプロン姿で笑いながら出迎える。
その光景は、一度はなくしかけたものだった。故にナタクは思う。
もう二度となくさないように。
今度こそ傷つけない未来を。
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