太乙が目を覚ましたのは、それから二日後の事だった。そこは何もない白い壁の部屋だった。さほど明るくない灯りの中、ぼんやりと世界が広がっていく。
首と頭は動くが他は固定されているのか力を入れようとしても全く動かなかった。そこでようやく、自分が寝台に寝かされているのだと気づく。
「やあ、目が覚めたかい?」
声がした方向に視線を移せば、そこには見慣れた友がいた。
「雲……中子……?」
咄嗟に出た声は何故か酷く枯れている。それを聞いたからか、雲中子は素早くストロー付きのコップを口元に差し出してきた。何とか口に吸い上げると、ぬるい水が喉を通っていく。それでも随分と水を飲んでいない気がしておいしく感じた。
飲み終わるの待っていた雲中子は、コップを受け取ると落ち着いた声音で話しかける。
「何があったか、思い出せるかい?」
「ああ……うん。だいたいは把握できてると思うよ。まだ何か動かないところ多いんだけど」
そう言いながら手を上げてみようとするが、震えるだけであがることはなかった。感覚がほとんどない。
「麻酔かけておかないと激痛で唸ってるだけの人になるだろうからね」
「それはやだなぁ……」
「でしょう?」
会話に満足したのか、雲中子は薄く笑っている。それを見ながら、少しずつ眠る前の記憶を遡った。
あまり詳しく覚えていないが、徹夜明けでフラフラしていたところにナタクが帰ってきたような記憶がある。迎える用意を全くしていなかったので、慌てたところで強い衝撃と共に爆音が鼓膜に響いた。
そのあたりで記憶は途絶えているが、今の己の状態を鑑みると想像するに難しくない。
「随分、迷惑をかけたようだね」
「まったくだよ。久々に肝も冷えた」
声は笑っているが、顔が笑っていない。これは怖い。怒られるに違いないけれど、とりあえず言い訳を考える。
「あはは、ちょっと徹夜明けで寝ぼけてて気がついたら攻撃されてたんだよ。宝貝を発動してる余裕もなくってさ」
「世界最硬が聞いて呆れる。宝貝が発動しなけりゃまったく無意味だ」
「はぁ、返す言葉もないよ」
防御する時間すらなかった。というのは、あまり言い訳にはならない。不意打ちとは大概そういうものだからだ。
「あのねぇ、私もよく忘れるからあんまり言えないんだけど、あれが君の弟子じゃなくて金鰲島の敵だったら、今頃君は確実に死んでるよ」
「そう……だね」
それは我々技術者が一番気をつけなければならない事の一つだ。
「敵の回復力、補給力、技術力を割くなんてのは戦略の基礎の基だってわかるだろう? 特に君はいつ狙われてもおかしくないのだから」
「面目ない、おっしゃるとおりです先生」
太乙は素直に頭を下げる。気を緩めていた事は事実だ。確かにあれでは怒られても仕方がないだろう。
そもそも敵の襲来を予測して護衛をつけると言われたところ、世界最硬を盾に遠慮してある。近くをうろつかれては、研究に集中できないし気が休まらないからだ。おそらく頻繁に道徳や玉鼎が様子を見に来るのは半分護衛も兼ねている。それほどまでに厳重さを求められている。
だからこそ、今回の件は致命的なのだ。
「わかってるならいいんだよ。でも良かったね、君の弟子が私のところに連れてきてくれて。他に連れて行かれてこの事が表沙汰になったら、間違いなく君とナタクは隔離されるよ」
「あの子、仙人界での面識少ないからね。ここしか思いつかなかったようでほんと良かった」
太乙の地位は高い。知識と技術力の高さを買われて十二仙の地位にあるが、それだけではなかった。
師である元始天尊にも並ぶその能力は代えがきかない。すなわち、封神計画に必要不可欠な人材とされている。
ナタクとて宝貝兵器として無二の存在ではあるが、それを生み出せる能力を持つ太乙の方がより重要視されるのだ。
上はおそらく、要人を守るためならば簡単に引き離しにかかるだろう。それは遠からずナタクも危険にさせる事だ。
「あと君の弟子にも色々言い含んでおいたから」
黙って考え込む太乙に、雲中子は何か思い出したかのように告げた。
落ちてきた言葉をもう一度心に響かせて意味を飲み込む。おそらくは雲中子流の説教だろうと思い至った。
「……。わ、私の不注意が悪いのだから、あまり叱らないでやっておくれよ」
「そうはいかないし、既に遅い」
雲中子は説教し説教される間柄だ。彼の説教は率直すぎて厳しいのだと思い出す。その分わかりやすくはあるのだが容赦がないから言葉が胸に刺さるのだ。とうとうナタクもあれを食らってしまったのかとつい哀れむ。きっと普段言いづらくて言いそびれたり後回しにしているような事やこちらの思惑をズバズバ言っただろう。今は痛みを感じないはずなのに何故か頭痛を感じた。
「うう……。で、ナタクは?」
「明後日来るように言って家に返したよ。私の家に置いてやる道理はないし」
「えっ!? ……だ、大丈夫かな、あの子。ご飯とか作ったことないし、あまり家事もさせてないし、掃除なんてしたこともないだろうに……戻ったら家ごと消えてるとかゴメンだよ!?」
途端に慌てだす太乙をなだめながら、雲中子はケロリとした顔で返す。
「一人で生きられもしない甘えたのくせに粋がってるし、少しくらい現実でも見て反省すればいいじゃない」
「雲中子はスパルタだからそう思うんだよー!」
本来、幼い弟子の面倒は師匠がみる。だが一定の年齢にまで達すれば、弟子は自分の事は自分でするし、ついでに師匠の世話をする。目上の者の世話をするのは世間では普通の事柄だ。そう考えれば、ナタクはもう師を助けてもおかしくない歳のはずだった。だが太乙の事だからきっと何から何まで面倒を見ているのだろう。
無くして初めてわかる親の偉大さに気づくといい。親じゃない、なんて言いながらきっちり世話になってた事実を理解すればいい。
ちなみに余談だが、うちは自分が研究に没頭し始めると家事が疎かになるので、最近は弟子が世話を覚え始めた。自立というやつだ、喜ばしい。
「まだまだ優しいよ。ていうか普通でしょこのくらいは。君が甘いの。甘やかすからこんな事になるんだよ」
「だ、だって~~~」
「はいはい、もうわかってるから。食べるもの食べて今日は寝なさい。君の身体はまだまだボロボロだし、寝ないと治らないよ。明日から麻酔を鎮痛薬に変えるから、今のうちにぐっすり眠っておくことだね」
麻酔から鎮痛剤にかえると、おそらく暫くは痛みで呻くことになるだろう。麻酔を続ける事もできるが体には良くないし、太乙にも一度くらい灸を据えてやるかといったところだった。
人は所詮、一度痛い思いをしておかないと過ちを繰り返すのである。怪我が楽に治るなどと思われるのは良くない。
「はーい、先生」
太乙はふてくされながら運ばれてきた粥を少しだけ啜ると、また直ぐに深い眠りへと落ちていった。
眠る友の姿を見て、安堵と悔しさがこみ上げる。傷を癒やす手段を考えるのも仕事の内だし、研究対象としては大変やりがいのあるものだ。
けれど、こんな事は二度と御免だった。もっと一瞬で傷を治せる方法を発明しなければ。でないと大切なものをいつか失くしてしまう。そう考えながら、雲中子は静かに扉を閉めた。
二日後、時間よりも早くナタクはやって来た。息こそ乱れていないが急いで来たのは明白で、雲中子は眠い目を擦りながら叱咤の甲斐はあったのかと思い直す。否、そうでなかったら叩きだしているところだ。
雲中子は多くを語らぬまま部屋まで案内すると、何も言わずに立ち去った。
あの場所に居合わせるというのは少々無粋というものだろう。どうせ太乙がナタクをデレデレに甘やかすのだろうが、今更それについてとやかく言うつもりはなかった。
ナタクは暫く扉の前で立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと扉を開けた。何を言おう。何を話そう。言葉など出てくるのか、それすらもわからなかった。ただ顔を見たかった。生きている姿を見たかった。
師は、広い部屋の、広いベッドの上にくくりつけられるようにして眠っていた。
近づいてみれば、それらは縄や鎖ではなくチューブなのだとわかる。それが身体のあちこちに繋がっており、肌は包帯でほとんど見えず、まるで服のかわりのようだった。
「ナタク? そこにいるのかい?」
か細い声に顔を上げれば、そこにはうっすらと目を開いた太乙がいた。
「良かった、元気そうで。雲中子が説教するって言ってたから心配したんだよ。凹まなかったかい?」
そして彼は安心したように柔らかく笑った。思わず側に寄る。この顔を見るのはずいぶん久しぶりに感じたが、確かに先日彼を傷つけてしまう前まで長らく会っていなかったのだと思い出す。
「……いや。何か難しい事を色々言われたが」
ナタクの無表情の中に小さな戸惑いを拾った太乙はおかしそうに苦笑する。
「あれは理屈に合わない事が嫌いなのに、たまに感情論をもっともって顔して振りかざして来るからねぇ」
「そうなのか?」
「一意見として聞いておけばいいよ」
声はか細いながらもいつもの調子だった。傷も、あの夥しい血の跡は全くない。赤くない。綺麗な白の包帯で巻かれている。顔色も血の気が戻って落ち着いている。大丈夫だ、生きている。
心中でほっとしているナタクをよそに、太乙は部屋の何もないあたりを見つめながら、一呼吸置いてぽつりと漏らした。
「ごめんね、ナタク」
小さな声だったのに、無音になった部屋ではしっかりと耳に届く。その言葉にナタクはハッと顔を上げた。
「何故、お前が謝る?」
彼を、師を一方的に傷つけたのは自分だ。
いつも帰ると嬉しそうに笑うのを知っているのに、何をしても迎え入れてくれると知っているのに、酷い仕打ちをした。
流石に自分でも、怒られるべきは誰なのかくらいは理解できる。なのに、何故。
「そりゃまあ、私が気を抜きすぎてただけだからね。君が戻るのはもう少し先だと思っていたから、徹夜明けで意識朦朧なところだったのさ。びっくりしただろう?」
いつものひょうきんそうな語り口も、今だけは重く聞こえる。ナタクは眉間に皺を刻みながら、顔を見ずに言った。
「戦士は休息も大事だとか、前に言っていたのはお前だろう」
「面目ない。私が戦士じゃないのはこの際気にしない事にしてもだ。今回の件は私のミスだよ。全て私が悪い。……本当にね、私は気を抜いちゃダメなんだよ」
ここへきてナタクは、雲中子の言葉の意味をやっと理解した。何が正しくて、何が間違いなのか、まだその判断材料が少ないナタクにでも分かった。異常だ。
「違う、本当に悪いのは……」
そう言いかけたナタクを遮るように、淡々と太乙は話しを続ける。
「私を攻撃したのが君じゃなくて敵だったら、私は今頃とっくに死んでいる。それは想定できる……考えられる事の一つなんだよ。まして君が私を攻撃することは、想定するまでもなく分かること。それを予測できなかったのは、私の落ち度だよ」
「何故、俺を怒らない?」
悪いことをすれば怒られる。それくらいは知っている。今回の件が冗談では済まない事も。誰が何を反省すべきかも。
「君は既に雲中子に怒られたみたいだし十分なんじゃないかな。それに、君はもう何を反省すべきか理解できているはずだよ? 違うかい?」
太乙は真っ直ぐナタクを見ていた。しかしナタクはその目を見返す事ができなかった。
何と言えばいいのかわからない。怒られたいのか、怒られたくないのかすら分からなくなり、たまらず言い返す。
「でも俺は、本当にお前を殺そうとした」
「けれど私を助けてくれたのもナタクだよ。大丈夫、君は優しい、いい子だよ。破壊衝動が強いのは君が宝貝人間であるところに起因しているのだから、君は悪くない」
反論もすぐに返された。どうしても、どうしても師は自分を庇う気らしい。そうナタクは感じた。
「そんな簡単に、許されることなのか……」
「もうするなとも言えないし。そうだねぇ、いい機会だから手加減でも覚えてみるといいよ」
にこりと太乙が笑った。それがいつもの風景と重なる。いつだってそう、自分は最大限気を使われていた。大切にされていた。それが恩着せがましく感じられて、無視をしてしまっていたけれど。とっくに気がついていたはずなのだ。
何も言い返す事ができず無言のままのナタクに、心配そうな目線を向けていた太乙は、空気を変えるようにわざとらしくため息をついた。
「あーあ。肝心な時に全くダメダメだったのバレたら、怒られるだろうな~」
「……アイツに、俺が攻撃したとバレたら、俺は消されると聞いた」
あれが脅しではない事くらい分かっている。消されないにしても、簡単に会うことも叶わなくなるだろう。これまでだとその方が楽だと思ったかもしれない。けれど、今はそうは思わなかった。太乙と離れたら、きっと本当に自分はただの兵器になってしまう、そんな気がしたからだ。
「それはさせないけれども、バレたら相当怒られるだろうね。いいかいナタク。ちゃんと黙ってるんだよ?」
「……わかった」
どちらにせよ、自分から身の内をペラペラと語る方ではないナタクにとって、それは言われなくても当然の事だったのだが、わざわざ念を押してくる太乙にナタクは少し考えたあと素直に頷いた。今はあまり心配をかけさせたくない、ふとそう思った。
「でも嬉しいなあ、ナタクが私を気にしてくれるなんて。怪我した甲斐もあるってもんだよ」
じっと見ていたのがバレたのか、太乙が嬉しそうに笑う。
「うるさい、さっさと治せ。何もしなかったお前に勝てても嬉しくない」
「はいはい、それまで家のことを頼むね」
「……」
「なんでそこで黙るのさ!? うわあぁ、これははやく家に帰らないと」
頭を抱える太乙に、ナタクは今の乾元山の惨状を思い出す。結局のところ瓦礫を撤去したまでしかうまく行かなかったし、食べ物もどうやって調理すればいいのかわからなかったので果物を齧っただけだったし、洗濯は水に浸けただけで終わってしまったし、何一つできなかった。
何より、あの場所は一人では広すぎた。誰もいないあそこは、いつもより落ち着かなかった。
「はやく、帰ってこい」
そんな言葉が自然と口に出る。それを聞いた彼は、一瞬物珍しそうにナタクを見ると、やはりいつものように優しく微笑んで頷いた。
「うん、すぐ帰るからね」
こうしていると確かに母親のようだと、ナタクはひっそりと心の中で思ったが、それを口には出さなかった。
数日後、ようやく雲中子から帰宅の許可が降りた。
これ以上、乾元山に太乙がいないことがバレるのはマズいというのも大きかったが、これ以上の容態悪化は起こらないだろうという判断がされたからでもある。
知らせを受けていたナタクは太乙を迎えに、再びこの地を訪れていた。
「いやぁ、君には迷惑かけたね」
まだ自力で立つことができない太乙は、ナタクに抱えられながら挨拶をする。少し前には考えられないような光景だっただろうが、太乙に大怪我を負わせた事をひきずっているのかナタクは大人しかった。
「ほんとうだよ、全く。こんな迷惑は二度とかけないでほしいね。次にケンカで大怪我したら、今度は上にちくるからね」
「ごめんってば、ちゃんと埋め合わせもするから三度くらいまでは許しておくれよ」
「だめ」
「意地悪だなぁ」
「スパルタと言って」
相変わらずの掛け合いをするほど元気を取り戻した太乙は、早速雲中子とどうでもいい会話を繰り広げている。そんな中、黙っていたナタクがぼそりと呟いた。
「かけない」
その声に、その場の視線が集まる。そのナタクの視線は、しっかりと太乙を抱きかかえながら真っ直ぐ雲中子を射抜いていた。
「……ナタク」
「もう、二度とだ」
先ほど話の返答なのだろうと太乙は理解したが、雲中子は全ての答えの解と受け取った。不器用ながらも、ようやく理解し始めたと言うことだろう。太乙が言っていたナタクの心を、自分も少しは信じてやろうと少しだけ思う。
「そうかい。……まぁ、お茶くらいなら、いつでも飲みにおいで」
雲中子がにやりと笑い返すと、無表情の顔のままナタクは頷いた。
そんなやりとりを傍目に、一歩雷震子が前に出る。その手には何やら色々物が詰めてある鞄がある。雲中子に言われて用意された看護セットだった。
「雷震子くんも世話になったね。怪我はすぐ治すから、またウチにも遊びに来ておくれよ」
「うぃっす。まだ暫くはコイツこき使って、無茶はやめてくださいよ、太乙さま」
「ありがとう」
「おいナタク、てめーちゃんと落とし前つけて太乙さまの世話しろよ? できねーなんて言わせないからな」
「フン」
雷震子はナタクの片腕に医薬品や包帯の入った看護セットを括りつけると、ナタクを睨みながら離れていく。それを合図に、ふわりとナタクと抱えられた太乙が浮いた。音が静かなのは、衝撃を与えないように最大限ナタクが気を使っているためだろう。
「それじゃ、またね雲中子。行こうか、ナタク」
「気をつけてね」
背を向けて去りゆく背中から、雲中子は確かに聞いた。
「世話になったな」
たったそれだけだが、今回で彼ら師弟が得たものの大きさを知る。
「怪我の功名ってやつかね。……功名でもないか。雨降って地固まる、かな? とにかく、良かったね、太乙」
弟子にも聞こえないようにそう呟いて、雲中子は彼らが去った空を見上げた。
旅立ちの空は、いつも青が似合う。今日は久々に、太陽の光が心地良いと感じた。
了
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