【登場する人】
太上老君、申公豹、太乙
【CP】
申老
【備考】
申公豹と老子がとある理由で喧嘩する話。
黒点虎に「老子が呼んでいるよ?」と言われ、飛んで帰ってみたら――
「何ですか老子?貴方が私を呼ぶとは、珍しいですね」
今日も今日とて、また暇な一日の繰り返し。……と、思いきや、まさか師に呼ばれる日が来るなどと、天変地異の前触れなのではないかと思いつつ、彼は師の元へ舞い戻った。そして申公豹は、開口してすぐに眉をひそめた。理由は、特に何も変わりが無さそうだったからだ。
師として、一応敬意を払い礼をとるものの、最強の道士である申公豹は依然と霊獣に跨ったまま、師の言葉を待った。
しかし、そんな事を気にも止めず彼は小さく欠伸をして、ぼんやりとした目で道士を見やる。
「申公豹、君に頼みたい事があるんだけれど」
「頼み事ですか? 使いっぱしりは嫌ですし、面白くない話は却下ですよ」
「違うよ。私を、ある人の元へ連れていってほしい」
「誰の元へですか?」
「太乙真人」
そよそよと風が吹き、二人と一匹の間をふわりと抜けていく。
「いいでしょう。そのかわり何用で行くのか聞かせて頂きますよ?」
「いいよ」
柔らかな花の香りに包まれて、霊獣の主を見上げる金の瞳の青年は静かに目を瞑った。
何か面白い話であればバンザイで、そうでなくても師の声が聞けただけマシだっただろう。だが、予想斜め上と言うものは、この師においては常日頃だと言うことを、忘れていたのだ。
「……イヤです」
「えぇ!? 申公豹っ!」
彼はその理由を聞くと、間髪入れずに即答した。 二人と一匹の間に沈黙が流れ、先ほどよりも冷たく感じる風がザァと吹き抜けて行く。
「そう……」
短く無関心な返答を告げると、老子は傾世元禳をふわりと風にそよがせ、ゆっくりと宙に舞い上がった。
「なら、仕方がないね。面倒だけれど自分で行くよ」
「お待ちなさい! あの者の元へ行くのは許しませんよ、何としても私が阻止します!」
申公豹が無表情に怒気を放つ、空気がピリピリと帯電しはじめ、黒点虎が小さく悲鳴を漏らした。怒りの根源はわかっている。存外、自分は子供っぽいのだなと客観視するが、自分が頑固だということ、意にそわぬ事に行き当たった時に本気になって阻止する性格は把握していた。
「何を怒っているの? 君には関係がないことだろう?」
老子の持つ宝貝が、怒りの電気に反応して、主を守るようにふわりと老子を包み込む。しかし、それごと焼ききらんとばかりに、申公豹の霊力は増して行く。
「それが残念なことに大アリなのですよ」
ますます力を高めていく己の弟子を見て、老子が珍しく煩わしそうに顔を歪める。彼は自分に『傾世元禳』の防御力がある限り負けはない、と踏んでいた。この宝貝には持ち主次第で防御力が増すという特性を持っていたからだ。
しかし、また勝ちもありえなかった。持ち主次第で変貌する宝貝といえば、最強の名を持つ申公豹の持つ雷公鞭とて同じだからだ。
更に老子の持つ唯一の宝貝は攻撃用ではない。しかも目的がバレている以上、下手に動くと目的である太乙真人を手にかけられる恐れも出る。
そうと考えると、彼が以前に所有していたアンチ宝貝『太極図』は彼や他人を守るという点で、これ以上のものはなかっただろう。
老子は寝起きのぼんやりする頭で、どうしようかと考えていた。
もう彼が夢で垣間見ていた「女禍の道筋である未来」が見れなくなった今、老子にとっても未知の世界となっているのだ。読み切れない世界。新たな道を紡ぐ世 界。これまでは、世界の未来をあまり考えずに見守るだけの卓越した思考の持ち主は、この状況下に置いてまで考えることを面倒くさがりつつも、少し困惑して いた。
弟子が何故怒るのか、それだけがさっぱり理解できなかったからだ。
これまで口出しされたり、何かと世話は焼いてもらった……ように思うが、ここまで過干渉をされた事は、おそらく一度もなかっただろう。ここに来て、何かが変わったと言うのだろうか。
そうしている間に、強烈な雷撃が空を裂いて迫って来た。白い閃光が視界を多い、雷の爆ぜる音が周囲に響く。鼓膜を劈く、激しい音だった。
この距離では、回避できなかったはずだ。そう読んだ申公豹は、『見えない壁』が雷を弾き、薄れて消滅するのを見て少しばかりは戦いた。
このくらいではおそらく死なない。けれど、これは……妲己の比――彼女を見たのは遠い昔だが――ではなかった。
「手加減はしていますが、防ぐとは流石ですね」
パリパリと電流の流れる雷公鞭を持ち、申公豹は冷めた笑いを浮かべる。 老子も同じくひどく冷めた目で対峙していた。
これはもう、完璧な……喧嘩だと言えるだろう。生まれて初めて師と喧嘩をした。普通なら師に手をあげるなどご法度だろうが、この場合は力が拮抗してしまっている。
対する老子は、先ほどの電撃で指先がちりちりと痺れていた。平気な顔こそしているが咄嗟に全てを遮断しきれなかったのだ。あれでかなりの手加減をしているのだから、我が弟子ながらに末恐ろしいと老子は思う。
さて、ここをどうやって切り抜けるか。それを考え、老子は傾世元禳に呼応を求めた。これまで、女禍との戦いの時しか使用したことがないため、いまいち使い方がよく解っていなかった。使うところがなかった……というのも一つある。
スーパー宝貝はそれぞれ、強くはないが意思を持ち、いつでも己を使う者を値定めしている。いわば、性格と好みがあるのだ。この傾世元禳は、良家のお嬢様、 といったところか。弱いものには触ることさえ許さない誇り高さを持っているが、圧倒的な力を持つ者には手放されるまで尽くす。
三大仙人の一人として、計り知れない力を持つ老子を、持った瞬間から主人とし付き従った傾世元禳だが、あまりにも怠惰な持ち主ゆえに、これまで彼を守る防護壁としてしか意味を成していなかった。
ある意味、無限の可能性を秘めた宝貝をそのように扱っているというのは、老子らしくもあるのだが……人は勿体無いと揶揄するであろう。
「随分余裕ですね、老子」
再び、申公豹の宝貝から発生する強い電流が周囲に走り、稲妻が花のように明滅する。
どうやら効かない事を見通してか先ほどより、より威力を増せてあるらしい。あれは、当たったら痛そうだ。と、ぼんやりと老子は思った。
申公豹の腕が雷の鞭を振るうと、激しい電流が老子にめがけてジグザグに落ちる。
老子は、目を閉じて、静かに息を吐き出した。
「我は風、我は大気、空に存在する者、汝の敵ではない」
次の瞬間、雷は老子を透り抜けて、四散した。
「なッ!!!」
「ふう。…………じゃあね」
そう、一言残すと。老子はめんどくさ気な眼差しをちらりと向けて、空間から溶けこむように姿を消した。術と宝貝の力を応用して使用する、昔に妲己も使っていた空間移転術だ。
してやられた。ギリと、奥歯を噛み締める。こんな悔しい気持ちは何年ぶりだろうか。彼は最初から戦う気などなかったのだ。その上での、勝利宣言だったのだ。
申公豹は空気を圧迫する雷を抑え込むと、太上老君が消えた位置から目を離さずに、己の霊獣に問いかけた。
「……逃げられました。が、そう遠くへは行っていないはずです。黒点虎、千里眼で探せますか?」
「やってみるよ。……けど、いいの? 喧嘩なんかしちゃって」
「私は怒っているのですよ? 誰にわがままと言われようと、これだけは許せません。断固阻止せねば!」
「うーん、後で怒られても知らないからね」
黒点虎は、やれやれと溜息をつくと。空へ高く舞い上がり、その金色の大きな瞳を輝かせた。
黒点虎は何だかんだで楽しんでいた。あの師とこの主というものは面白い。あの淡白だった二人が、何かをしでかすのか。要するに、相手は怖いが黒点虎には出歯亀根性があった。
陰った林の中に、彼はいた。太上老君その人である。
傾世元禳に術式を聞いて、その場の勢いで初めて空間を渡ったにしては、まぁ上手く飛べた方だろうか。しかし、先ほど居た場所よりも離れていないことを老子は感じていた。
同じ場所に止まるのは得策ではない。千里眼を持つ霊獣があちらに居る限り、逃げるという点でこちらが不利だった。ならばこちらは空間転移を重ねて、その眼を誤魔化しながら進むのが良いだろう。
だが、その前に場所の確認と目的地の方角を把握しておく必要があった。この手の聴きこみは得意だ。老子が片手を前に挙げて瞳を閉じると、周囲にいた鳥達がその腕や手に留まる。
「教えて……」
そう一言だけ喋ると、彼は鳥達のさえずりにそっと耳を傾けた。
「あ、いた。なんだか鳥に囲まれてボ~っとしてるよ」
「鳥と会話してるのでしょう。流石は我が師、なかなか人間離れしていますね」
思わず感動して唸ってしまう。自然の中に紛れてひっそりと暮らしていた師は、自然界の無言の掟を知っている。同調の技術とも言えるだろう。敵意がないと見せる術を、知っているのだ。
先ほどの空間転移も、かなり昔とはいえ妲己並の仙人が何千年もの修行を積んで、かの宝貝を媒介にしてようやく習得した高位仙術だ。それをまあ一瞬でやりとげたのだから、その能力は計り知れない。
申公豹はその体に戦慄が走るのを覚えて、ニヤリと笑みを浮かべた。わくわくして仕方がない。
「黒点虎、場所はどのあたりですか? 彼のことだから目的地に向かって空間を渡り続けるでしょう。直接向かうより、現れる地点を計算して先まわりした方が早そうです」
「そんな事ができるの?」
「ええ」
「えっと場所は~……ここから南南東の森の中かな、ほらあそこ! 見える?」
やはり予想した通り、そう離れた場所ではない。 申公豹は黒点虎にもう少し先へ進んだ、最短距離より少し外れた場所を指名した。今から最速で飛べば、十分追い付けるだろう。何としても必ず、老子を止めたい。それがわがままで師を傷付けたとしてもだ。
しかし彼も三大仙人といわれた男、手加減は至難となるだろう。 手加減どころか本気で対峙して勝てるかもわからない。何しろ、本気でやりあったことがないのだ。
申公豹の『最強』と言われる所以は、持っている宝貝、霊獣、霊力、戦闘センスから来ているが、それはあくまでも『師に戦う意志がない』を前提にしている。宝貝も、霊獣も、師が持っているのを見たことはない、が……霊力はまだ片鱗しか見たことがなかった。
理由はどうあれあの妲己に対し「負けない」と自負していた猛者なのだ。
だが、勝負を楽しみすぎて老子を倒してしまうのだけは避けねばならなかった。手加減するなど好きではなかったが、そこだけは譲れぬ一点だった。
何度か空間を渡りながら老子は移動を繰り返していた。いつか彼は、転移したその先に現れるだろう。しかし徒歩か速度の遅い飛行能力を考えれば、この方法が安全かつ最速だった。
幾度か空間を渡った時にその痛みは突如として襲ってきた。身をとりまく布から発生している自動防御能力で直撃は免れたものの、全身に痺れるような痛みが走る。
まさかここまで正確に転移後の位置を読んでくるとは。
だが、うかうかしている時ではない。この痛みの中、空間転移に必要とされる集中力の回復をしなければならないからだ。
老子は瞬時に第二撃目に備えた防御壁を生み出す。その防御の壁もその次の瞬間には雷の一撃で綻んでいた。
シンプルながらに回避が難しく、一撃が重い。その威力は持ち主が調節できるが、最大威力はこの蓬莱さえも起動不能にさせる破壊力だろう。
「痛いんだけど……」
ぽつりと届く程度に小言を漏らす。
「でしたら、馬鹿な考えはやめて帰りましょう」
にっこりと弟子は目を細めて笑うと、再びその宝貝に電流を走らせる。
「と、いいたいところですが。久々に互角に渡り合える者を前にして私は嬉しいのですよ」
笑っていた目が不適に開く、その様を相変わらず無表情で見ていた。
「ですから、逃げるなんてやめて私と本気で手合わせしませんか? 老子」
「君はこの不等な戦力差でやりあうと言うのかい?」
老子の持つ宝貝はスーパー宝貝とはいえ、防御と魅惑の力しか持たず。対する彼は最強と言われる宝貝に、最強の霊獣にまで乗っている。
傾世元禳は言わば対生物用。多くの生き物を操って下僕にする、というものだ。弱点は、一定のレベルに達すると効力がなくなるということだろう。ただし、普通の戦闘において、数に勝る暴力はない。あくまで本来であれば……だが。
つまり、勝機は申公豹にあるのだ。
「まぁ、それでも君は、私に絶対勝てないけれど」
しかし、老子は薄い笑みを浮かべた。神々しいまでの仙力がぶわりと広がり。その力が申公豹の頬を撫でていく。精錬された清らかな風だが、背中がゾワリと震える。
「ほう……? えらく自信があるようですね」
「この手は使いたくなかったんだけどなぁ……面倒くさいし、疲れるし、後味悪いし」
老子は仕方なさそうに溜め息をつくと、静かにその衣を風にそよがせた。甘い香りが漂う。どうやら、妲己のものとは違うようだ。一人ひとり匂いが変わるのだろうか。
「誘惑の術ですか。確かに強力ではありますが私には効きませんし。この技は風下に立たねば問題ないのですよ」
申公豹が黒点虎を撫でると、更に高い位置にあがり甘い風を避ける。
「私の術は、そんなにやさしくはないよ……」
「?」
老子が衣を軽く引くと彼の気が更に膨れ上がり、爆発にも似た光が溢れ出す。その光は風を生み出し、全包囲に向けて吹き荒れた。
「な!!!」
こんな技、仙人にできるものなのか……否、常人にはできない。三大仙人と呼ばれる他の二人でもまず不可能だろう。人間離れを越え、仙人離れの域に入っている。
その甘美な魅惑の粉を吸い込み、申公豹は思わず頭を抑えた。妲己のものとはまた違った感じの強烈な誘惑が、体と脳を支配しようと駆け巡る。
まさか自分が誘惑の術にかかる一歩手前まで追い込まれるとは。頭がクラクラとして、流石と思う半分、悔しくも思う。
「やっぱりこの程度では術にかからなないか……」
老子は静かにこちらを見ている。その姿さえも扇情的に見えるのだから少しは術にはまっているのだろう。
「でも、辛そうだね」
先ほどの力をこの程度というなら、本気を出した彼どれほどの力を持つのか。まだ頭の芯が痺れたような感覚の中、申公豹は次の瞬間、体が傾き宙に振り落とされた。黒点虎の方が誘惑の術に耐えきれなかったのだ。
申公豹は麻痺して動かない体に意識を集中させなんとか受け身を取って着地した。
黒点虎はといえば、彼の元へ行き喉を鳴らしている。老子は彼をふわふわと撫でてあげると、いつも座っている箇所にするりと座り込む。
「あまりこの手は使いたくなかったんだけどね」
ごめんね、と小さく告げると黒点虎は空に舞い上がる。
「悪いけど先に行かせてもらうよ。じゃあね」
まだ体の自由が上手くきかない申公豹を残して、彼等は空の彼方へと消えた。
師と己は、奇妙な関係だった。
彼の下から独立した日はもう遥か昔なのだが、それでもずっと師だと思っていた。
師と呼べる者は彼だけだったし、彼の底が知れない事も知っていた。大きい人だった。何だかんだで幼い頃は面倒を見てくれていたし、世話になったとも言えるだろう。
……今は全く逆で老人介護をしている気分になるのだが。
そんな彼が、外の世界を遮断するための道具を無くした。
それは自分にとっては意外に思う程度の展開で、さほど気には留めていなかった。その程度で関心は揺らされなかった。
だが、いざ生身の彼を目の前にして暫く過ごし、ふと気がついたのだ。
師は美しい。
人を超越するがのごとくの存在は、長く生きた自分でさえ届かない存在だった。
強くて、完璧……とは言えないが、今でも最強を謳えるだろう。その相貌は静謐なのに、不思議と色があった。人であって人で在らざる者、それが目の前に在た。
欠伸をかみ殺す事なく、眠たげに宙を見ている姿を見た。
やはり、美しい。美しいというだけで、己にとって存在価値があり、正義だった。きっとそれだけで、良かったのだ。
だからこそ、許せなかった。彼が再び眠りについていまうなど、許せなかった。
美しいと思ったものを守る。彼を、彼自身から。
彼の見ている世界を、見ていたかった。
眠らせたくなどなかった。
自分のものにしたいわけではない。ただそこにいて、眠るでなく佇んでくれていればそれでいい。
美しい者を、ただ見ていたい。それは自分の感性に従って貫く美学の一つだった。
迷いなどはなかった。
申公豹は雷公鞭の力を使って宙を駆けていた。久々に己の力で飛んで、息が切れた。ここまで来ると意地というものがある。それを捨てたくはなかった。
太乙真人の洞居が見えてくる。刺し違えても、嫌われてもいい、追われる身になっても構わない、師を止める。その覚悟を決めた。
「太乙真人! 覚悟しなさい!」
雷公鞭を翻して、地へ降り立つ。雲が裂け、雷が弾けて空気を震わせた。
しかし、返って来た返事は……
「へ?」
何とも気のないものだった。
「え、ええええ!? なんで!? 申公豹? どういう事? 私、何か怒らせるような事したっけ」
困惑した彼は、どうやらポットでお茶を注いでいたらしい。
可愛らしい白のテーブルには、甘い香りの桃の菓子が並べられている。
きっと今まで平和そうな空気が流れていたことだろう。
「貴方に恨みはありませんが、貴方が生きてると私が困ります! ゆえに死んでいただきます!」
「えぇぇぇええぇぇ!?!!? わた、私しぬの!?!」
腕を振り上げると、太乙が小さく悲鳴をあげて縮こまる。彼の肩の宝貝が発動する前に勝負をつけてしまいたい、と思ったその時、足の力が抜けた。
「ストップ。申公豹、止まりなさい」
まさか気配にすら気がつかないなどと……初めての事だ。背後には老子が立っていた。そして己の足から力が抜けた。所謂、足かっくんというものだ。そんなもので止められるとは、少々矜持が傷つく。
「老子、そうはいきません!」
「君の困る事態にはならないから」
「は?」
「だから……もう、作れないらしいから。少し落ち着きなさい」
「はあ???」
先ほどの剣呑さは何処へ行ったのやら、すっかり落ち着きを取り戻した老子はそのまま膝をつく申公豹には目もくれず、席についた。そのまま卓上の桃の焼き菓子を、一口、口に放り込む。
そこで太乙が合点が行ったのか、口を開いた。
「え、ああー。なるほど。そのことか。……ごめんね、私の技術で怠惰スーツの再現はちょっと無理なんだ。暮らしに快適な部屋くらいなら作れるけれど、人工呼吸器と生命維持装置を永久機関にするのは無理かなぁって」
「ってこと」
「は?!!」
これまでしてここへ来たことは何だったのか。という気もするが、目的が達成されてしまったからには鞭を納めるしかないだろう。渋々と雷公鞭を下ろす。
「そうだったのですか」
やけにほっとしてしまった。一気に気が抜ける。
「しょうがないからせめて快適な家を作って貰えないか、おやつがてら相談するところだったのだよ。私は住む家がないし、これからスーツなしで生きるとするならば野ざらしは嫌だしね」
「えっと、私は殺されなくて大丈夫なのかな?」
「はぁ……結構です」
怠惰スーツならぬ怠惰部屋という事なのだろうか。しかし、部屋ならば……まぁ、いいだろうと納得をする。
喧嘩の争点は怠惰スーツだった。もう一度、あの小さな要塞を求めた師を、申公豹は全力で否定したのだ。だが、もうあの師と己を分かつ壁は二度と現れないのだと言う。
新しい家。初めての人らしい住処なのではないだろうか。
これまで師が人らしい生活をしているのを見たことがない申公豹は、それはそれで面白そうだと考える事にした。
「わかりました。しかしその話、私も交えていただきます。寝てばかりいられたら私が不満ですので」
何故なら、この人物……ほおっておくと屋外で寝るわ食べないわやつれるわ、なんだかんだで介護しているからである。本来生きる力を持っているのに、最低限しかそれを公使しないのだ。
「ねぇ、申公豹。君はどうして私が寝てしまうのをそんなに怒るのかな? 私は面倒くさがりだから起きていると誰かに迷惑をかけてしまうし、というか主に君に。もうこれで君に迷惑をかけないと思ったのだけれど」
「そういう問題ではないのですよ」
「そうなんだ」
「そうです。まず貴方が動かなくて面白くないです。次に貴方の声が聞けないし、お話ができません。最後に貴方に触れられません。腹がたちます」
本当はまだあるのだが、それは飲み込んでおく。
とにかく、もう眠り続けるという選択肢は与えてやらないつもりだった。
彼が起きているならば、いくらでも世話くらい焼く。どうせ暇だし、師といれば暇ではなくなるはずだ。
「まるで恋する人のようだね」
老子は申公豹の言葉を茶化すが、申公豹はもう引くことをしなかった。
「そう取って貰っても結構ですよ」
「おやおや、随分遅い春だね」
一つ、老子はため息をつくと、真っ直ぐ視線を申公豹へと移した。
「いいよ、私の負けだ。私は教え子だからと言って世話を焼かせるつもりはなかったのだけれど、君がそこまで言うのなら」
「既に焼かされてます。だから多少わがまま言ってもいいでしょう」
「そうだね。面倒だし、私は任せられる者が居るのはありがたい」
「と、いうわけですよ。太乙真人」
「え、えーと……。じゃあ、怠惰部屋の構想は練っておくから、後で必要ない機能は教えて貰えるかな」
高位仙人師弟のよくわからない雰囲気と会話に呑まれていた太乙は、やっとの思いで言葉を口にした。決して安請け合いをしたわけではないのだが、胃のあたりが重い気がするのは何故だろうか。危うく殺されかけたからだろうか。
しかし、遥か高みにいる存在とは言え、師弟仲がいいのは見ていて羨ましいし、微笑ましい気持ちになる。これはもう、とびっきりの新居を造るしかないと、脳内で設計図を練り出した。
そうして、はた迷惑な師弟喧嘩は終わりを迎えた。
後にあの諍いは『最強の痴話喧嘩』などと呼ばれることになるのだが、それを本人達が知ることはない。彼らは太乙の予想通り引きこもりになったからだ。
二人は新たに造られた新居にて新たな生活をスタートさせることとなるのだが、それはまた別のお話。
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